舞台となった日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 07:39 UTC 版)
「ミカド (オペレッタ)」の記事における「舞台となった日本」の解説
オペラ『ミカド』は天皇を表すミカド(御門、帝、みかど)から名付けられた。文字通りの意味では皇居の「高潔な門」を意味し、隠喩的にその居住者および皇居そのものを表す。19世紀、英語圏でも「ミカド」という言葉は標準的に使用されたが、徐々に使われなくなっていった。オペラで日本の文化、様式、政治を描く限界があり、1880年代にイギリス人が魅了された極東および日本へ向けたジャポニズムに乗じて美しい舞台を使用したフィクションの世界の日本である。ギルバートは「オペラのミカドは昔の想像上の皇帝で、既存の機関に属するものではない」と記した。「『ミカド』は実際の日本を描いたものではなく、イギリス政府の欠点を描いたものである」。 海外に舞台を設定することにより、ギルバートはイギリス機関をより鋭く批判できると考えた。ギルバート・ケイス・チェスタートンはジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』と比較し、「ギルバートはスウィフトがやったように文字通り立ち上がれなくなるほどに現代のイングランドの欠点を追及した。劇中のジョークが1つでも日本に合うかどうかはわからないが。しかし劇中のジョークすべてが英語圏に合っている。イングランドについて、プー・バーはより皮肉的で彼こそが真実をついている」。このオペラはヴィクトリア朝を極東に重ね合わせ、ギルバートは2国間の貿易開始直後に日本の民族衣装や芸術を集約し、リハーサル期間中、ギルバートはロンドンのナイツブリッジにあった当時人気の日本村を訪れた。 ギルバートは舞台装置、衣装、役者の所作などについて本物を追い求めた。ついにギルバートはナイツブリッジの日本村の日本人数名と演出へのアドバイスと役者への指導の契約を結んだ。開幕公演では彼らへの感謝が述べられた。サリヴァンは楽曲に明治時代に作曲された日本の軍歌行進曲『トンヤレ節』を基にした『ミヤサマ』を取り入れた。ジャコモ・プッチーニは後に『蝶々夫人』の『Yamadori, ancor le pene 』に同曲を組み込んだ。登場人物の名前は日本人の名前ではなく、多くの場合英語の幼児語や単なる音が用いられている。例えば可愛らしい若い女性(pretty young thing )はピティ・シング(Pitti-Sing )、美しいヒロインは美味しいことを表す幼児語のヤムヤム(Yum-Yum )、横柄な公人はプーバーとピシュ・タシュ、主人公はハンカチを表す幼児語のナンキ・プーである.。死刑執行人のココはジャック・オッフェンバックの『Ba-ta-clan 』の悪役Ko-Ko-Ri-Ko の名に似ている。 長年日本人にとって『ミカド』に対しては複雑な心境であった。何人かの日本人の批評家はこのタイトル・キャラクターの描写は明治天皇への冒涜と考えた。当時日本の劇場は天皇を描写することを禁じていた。1886年、小松宮彰仁親王はロンドン公演を鑑賞し、気を悪くすることはなかった。1907年、伏見宮貞愛親王が来訪した際、イギリス政府は彼の気を悪くすることを恐れて6週間『ミカド』上演を禁止したが、滞在中に『ミカド』鑑賞を望んでいたために裏目に出た。伏見宮滞在を取材していた日本人ジャーナリストは禁じられたこの演目を鑑賞し、「深く愉快に期待を裏切られた」。故国を実際に侮辱されるものと構えていたが、「快活な音楽でとても楽しかった」。 第二次世界大戦後、『ミカド』は日本で多数上演されるようになった。1946年8月12日に、東京のアーニー・パイル劇場でピアニストのホルヘ・ボレットの指揮により日本初の公演が米軍に向けて上演された。豪華な舞台装置と衣装で、主な登場人物は女性コーラス同様アメリカ人、カナダ人、イギリス人であったが、男性コーラスと女性ダンサーは日本人であった。1947年、ダグラス・マッカーサー元帥は全日本人キャストの東京プロダクションによる大規模な公演を禁じたが、日本国内の他のプロダクションは上演することができた。例えば1970年、第8陸軍特別部隊主催で東京のアーニー・パイル劇場にて上演された。 2001年、埼玉県秩父市においてTokyo Theatre Company の名で『ミカド』日本語版が上演された。秩父市民はギルバートが「秩父」から「ティティプー」と名付けたと考えているが、これに関する確固たる根拠はない。永六輔はナイツブリッジの日本村にいた秩父出身者がギルバートに日本を舞台にしたオペラの着想を与えたと確信している。翻字のローマ字での「Chichibu」は現在よく見かけるが、19世紀では訓令式の「Titibu」が一般的であった。そのため公開当時の1884年のロンドンでの報道では「Titibu」が使用され、オペラでも使われるようになった。日本人研究者は、ギルバートは以前に19世紀に貿易が盛んであった秩父絹のことを聞いたことがあったのではないかと判断した。いずれにせよ『ミカド』の都市名は日本でもこのままで上演された。2006年8月、イングランドで行われた国際ギルバート・アンド・サリヴァン祭において『チチブ・ミカド』が上演され、2007年、同カンパニーが来日ツアー公演を行なった。 1990年代より、アジア系アメリカ人コミュニティから「単純化された東洋のステレオタイプ」として批判されるようになった。2014年、ワシントン州シアトルでの公演後、この批判は全米で高まり、ギルバートの伝記作家のアンドリュー・クロウサーは『ミカド』について「どの登場人物も人種的に差別するものではなく、イギリス人となんら変わりはない。このオペラのポイントは表面上は日本だが、ファンタジーの日本を通して描かれるイギリスの文化である」と記した。例えば『ミカド』冒頭部、いちゃつきの罪は日本の法律に反するというのは、イギリスの保守性を表現している。しかしクロウサーはプロダクション・デザインや伝統的な舞台はしばしば「侮辱したわけではなくとも無神経に映ることもある。より神経を尖らせれば回避不能ではないかもしれない。ギルバート・アンド・サリヴァンは愚かさと愉快さ、そして権力への嘲笑、世の中の不条理を描いているのだ」と記した。他のコメンテイターは政治的意味合いからこれらの批判を退けた。1ヶ月後、シアトルで行われた公開討論会には多くの人々が訪れ、『ミカド』はそのスタイルを変えるべきではないが、製作者と演者はこういった問題があることを知っておかなければならない、と結論づいた。
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