「蝶々さん」は誰か?
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「蝶々夫人」の舞台となった日本では長らく「『蝶々夫人』のモデルは誰か?」ということが議論されてきた。ロングの実姉サラ・ジェニー・コレルは、1890年代初頭から鎮西学院五代目校長で宣教師でもあった夫とともに長崎の東山手に住んでいた。ロングは、姉のコレル夫人から聞いた話から着想を得て、小説を執筆したとされている。 長年、有力視されていたのは、幕末に活躍したイギリス商人トーマス・ブレーク・グラバーの妻、ツルである。これは彼女が長崎の武士の出身であると、誤って伝えられたことや、「蝶」の紋付をこのんで着用し「蝶々さん」と呼ばれたことに由来する。長崎の旧グラバー邸が長崎湾を見下ろす南山手の丘の上にあることも、物語の設定と一致する。しかし、ロングの小説で具体的に記述されている蝶々夫人の経歴に、ツルの生涯と似ている部分があるが、重要部分で異なる点も多いため、モデルと考えるのは不自然との意見もある。一方、グラバーとツルの間に生まれた長男の倉場富三郎がペンシルベニア大学に留学していたこと、ロング本人が、「姉は倉場富三郎に会ったことがある」と語ったと言われることなどは、「蝶々夫人=グラバー・ツル」説を裏付ける要素とされている。ただし、ロングは小説が実話に基づくとは明言しておらず、また、彼自身がアメリカ士官を貶めているともとれる小説の人物設定について多くの批判を受けていたこともあり、真相は曖昧にされたまま現在に至る。 ツルが最初の結婚でもうけた娘・センの子孫の調査によると、ロングの小説『マダム・バタフライ』に登場する家がグラバー邸内と酷似していることと、ロングがのちに書いた戯曲『マダム・バタフライ その20年後』の原稿に「Dam. Too-ri」とメモがあり、ツルと読めることから、ロングはツルを下敷きにしていたと思われるが、内容自体はツルの経歴とは異なり、創作である。 当時の長崎では、洋妾(ラシャメン)として、日本に駐在する外国人の軍人や商人と婚姻し、現地妻となった女性が多く存在していた。また19世紀初めに出島に駐在したドイツ人医師のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにも、日本人妻がいた。下級の軍人が揚屋などの売春宿などに通って欲望を発散する一方、金銭的に余裕がある高級将校などは居宅に女性と暮らしていた。この際の婚姻届は、鎖国から開国にいたる混乱期の日本で、長崎居留の外国人と日本人女性との同居による問題発生を管理したい長崎奉行が公認しており、飽くまでも一時的なものだった。相手の女性も農家から長崎の外国人居留地に出稼ぎに来ていた娘であり、生活のために洋妾になったのである。互いに割り切った関係であり、この物語のように外国人男性との関係が真実の恋愛であった例は稀である。現に、シーボルトの日本人妻だった楠本滝は、シーボルトの帰国後に婚姻・離婚を繰り返している。まして、夫に裏切られて自殺をした女性の記録は皆無であり、蝶々夫人に特別なモデルはいない創作上の人物であると考える説も有力である。 「蝶々夫人」の先行作品であるメサジェの歌劇「お菊さん」の原作者ピエール・ロティの長崎の現地妻で、お菊さんのモデルであったおカネが蝶々夫人のモデルであるという説もある。おカネ(兼)は、1869年(明治2年)豊後国岡藩(現在の大分県竹田市)の武士の家に生まれた。幼い頃から三味線などの芸事を嗜んでいたが、西南の役で実家が没落、竹田に縁のあるグラバー夫人を頼り、長崎で芸者になり、1885年(明治18年)にロティと結ばれる。ロティとの結婚生活は1ヶ月で終わり、その数年後、おカネは長崎郊外の川原の提灯屋(ムシュ・パンソン)と再婚する。1900年(明治33年)ロティは長崎を再訪して10ヶ月滞在したが、おカネには会おうとしなかった。そのことがショックで、おカネは家を捨て一人竹田に戻り、烏嶽の洞窟で暮らした。竹田の人々は「狂人オカネ」と呼んだが、一部の人の庇護の元、その後20年間生きて、1921年(大正10年)に死去する。享年52。上記「作曲の経緯」で記されている通り、「蝶々夫人」と「お菊さん」の関係が明確になったことから、蝶々夫人のモデルは、竹田生まれのおカネさんという説である。
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