自白をめぐる謎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:21 UTC 版)
平沢は1948年8月21日に逮捕された当初は否認、後に自白、後に再度の否認、と二転三転した。 当初は否認:検事の高木一による取り調べを受けた平沢貞通は、当初、帝銀事件および2つの未遂事件について自分が犯人であることを否認した。 自白の開始:が、1948年(昭和23年)9月23日から自供を始め、自分の犯行だと認めた。10月8日と10月9日の両日、高木の上司であった検事の出射義夫(いでい・よしお)が取り調べを行い、調書を取った。 再度の否認:その後、平沢は自白を撤回し、再び否認に転じた。本人は「確か11月28日、18日かな、確か8がついた筈ですが、やっと催眠術から醒めたのです」(内村・吉益鑑定の聞き取り)と述べている。 後に、平沢の弁護団は、高木による取り調べは拷問に近いもので、平沢の自白は強要ないし誘導されたもので証拠能力はなく、出射義夫による検面調書(検察官面前調書。検察官の目の前で被疑者がサインをした供述調書)は捏造だと主張したが、裁判所は棄却した。以下、否認→自白→再度の否認、の流れを時系列順に示す。 1948年(昭和23年)8月21日:北海道の小樽で、名刺班の刑事・居木井為五郎らが平沢貞通を逮捕。 8月23日:東京の警視庁で、居木井らが取り調べる。平沢は否認。 8月25日:平沢、自殺未遂。早朝、留置場内で、ガラスペンで左手静脈を突き刺す。 8月26日:検事の高木一による取り調べが始まる。警察をはずして、検察が独占的に取り調べを行うのは異例。平沢は否認。高木は連日、朝10時ごろから昼食と夕食の1時間ぐらいずつ休み、夜の10時ごろまで平沢を取り調べ、その後は刑事を指揮して報告書を書いた。平沢が高木を「気分がおわるいのですか?」といたわることもあった。 8月29日:高木、別件の「日本堂事件」について尋問を始める。平沢は、銀座の日本堂時計店の詐欺未遂事件の犯行を否認。 9月1日:日本堂事件について、動かぬ証拠をつきつけられた平沢は、自分が犯人(未遂)と認め、高木に「どうか自殺させて下さい。日本堂の事でとても生きていられませぬから今迄何にもかも嘘を云って来て申訳ありませぬ」と述べた。 この日本堂事件については、平沢は後年も自白を撤回せず、平沢冤罪論者も平沢の犯行と認めている。 9月23日:高木は、安田銀行荏原支店で犯人の顔を見た警察官Iに、平沢の顔を見せた。Iは「間違いありませぬ」と高木に耳打ちした。この日から、平沢は少しずつ帝国銀行椎名町支店での犯行の自白を始めた。 9月27日:新聞各紙「平沢ついに自供」の号外を出す。 ニュースを知った練達の裁判官たちは異口同音に「高木君が自白させたのか。それならまちがいない。彼は決して無理な調べをする男じゃないからなあ」と述べた(出射1986, pp.254-255)。 その後、平沢に対して、UPI通信社のベテラン特派員であるアーネスト・ホーブレクトが、同僚のイアン・ムツとともに約1時間にわたる独占インタビューを行った。平沢が警察から手ひどい扱いを受けた徴候は認められず、平沢の手つきはしっかりしていた。(平沢は拘留中の自殺未遂で自分の手を傷つけていた)。平沢は英語で「警察は自分を礼儀正しく扱い、自白を引き出そうとして拷問的手段を用いるようなこともなかった」と強調し、自分を取り調べた検事の高木一を「ハイエストクラス・ジェントルマン」と賞賛した。米国人記者が見た平沢は「取調べを受けている係官たちとは、きわめて友好的な関係にあるように思われた」。ホーブレクトによる記事は「ニホンタイムス」紙(現「ジャパンタイムズ」)の一面を飾った(トリプレット1987 p.50-p.53)。 平沢は第60回調書(1948年10月8日)の中でも検事の出射義夫に対し「先日UPIの記者が検事の調べがひどいのではないかと言って来た事がありますが私は断じてそうではない。高木検事は『ハイエストクラスジェントルマン』であると答えました。私は高木検事を心の友と思ってるぐらいであります」(森川1977, p160)と陳述した。 平沢の精神鑑定書には「警視庁看守係巡査の動静報告書によると、平沢の精神状態は全部自白した後には前と比べて明瞭に平静となり、熟睡していることが認められる。/これなども真実を告白した場合と異るところがない」(福島・中田・小木 2018, p.321)とある。 10月8日:平沢の身柄を小菅の拘置所へ移管。午前7時、報道陣を前に車に乗り込む映像が残っている(「日本ニュース 第144号「平沢、拘置所へ」」)。 10月8日と翌10月9日、高木一の上司で検事の出射義夫が小菅の拘置所に赴き、調書をとる。 出射は熱心なクリスチャンで、戦時中は聴訴室を開設し民衆の直訴や相談を受け付けるなどリベラルを貫いた法曹であった。出射は、第一審の公判中に書いた文章「帝銀事件の問題点」(出射1986, pp.220-235)で次のように述べている。(引用開始)その年の十月中旬(正しくは上旬。出射の記憶違い)、私は平沢を逮捕して以来の高木検事の取調べをもう一度白紙の立場から検討するつもりで、小菅刑務所に出かけて行った。(中略) 「高木君は無理な調べをしたかね」 「高木さんは紳士です。私の友達です。留置中に進駐軍の人が来て、調べに無理はないかと言ったので、高木さんはゼントルマンだと言ってやりました」(中略) まだ電燈をともすほどではなかったが、調書を取り終わって、平沢貞通と達筆に署名した頃には、秋の夕暮の気配が社会から隔離されているこの部屋にも忍び入って、私の前に腰かけている一個の人間に対し無限の哀愁の情を唆るのである。(中略) 私が十月という秋の感傷にふけっているのに、平沢は実に何ごともなかったかのごとく、またこれから何ごとも起こらないかのごとく平然としているのである。彼は犯した罪業に恐れ戦くか、または冤罪であれば七転八倒の思いがあってしかるべきであるのに、何らの感動を示さないのである。実に不思議な男である。(引用終了) 敬虔なキリスト教徒だった出射は「帝銀事件の問題点」の中で、神ならぬ法曹が、目の前の人間が犯人か冤罪かを見極める本質的な難しさを述べ、「私が問題にしたいのは、人を裁くことがいかにむずかしい仕事であるかということである」(出射1986, p.235)「判決はしょせんは人間のわざなのである」(同前)と正直に語った。 10月12日:平沢、起訴される。 平沢の弁護人で弁護士の山田義夫は、小菅拘置所に移管されてから1週間目の平沢の様子を「上告趣意書」で次のように述べた(引用開始)小菅入りをして一週間目に平沢は面会に行った私に、最初は「私は犯人でありません」と言った。「それにしても細かい事を答えるぢやないか」という私に答えて、「教えられれば何でも答えられます」と言った。次いで「しかし私は今は結構たのしいのですよ。夜になると仏様が毎晩来て歌の遊びをしているのです。私はもう現し身でなくて仏身なのです。だからたのまれれば何にでもなりますよ、帝銀犯人にでも何にでもなりますよ」と言った。その瞬間たちまち彼は犯人になったらしい。眼を光らせて「私は帝銀犯人だ」と言った。「さっきの話と大分ちがうようだが」と言う私に、「いいえ私がやりました、荏原も椎名町もやったんです」と断言した。その怪しい無気味な彼の目付きから、私は彼は狂っていると直観した。こんな風じゃ何を聞いても駄目だと、何かまだ聞こうとする高橋弁護人を押し止めて、今少し落付かせよと言って引揚げてしまった。(引用終了) 12月10日:東京地裁で第1回公判。平沢は自白を撤回し、帝銀事件および2件の未遂事件について無実を主張。 以後、平沢は獄死するまで、帝銀事件の犯行は自分ではないと無実を主張し続けた。
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