組織労働者
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「カリフォルニア州の歴史」の記事における「組織労働者」の解説
カリフォルニアにおける組織化労働者の歴史は州の初期大半はサンフランシスコが中心だった。20世紀の最初の10年間にまでに、労働運動はロサンゼルス、ロングビーチ、およびセントラルバレーに拡がった。1901年、サンフランシスコを本拠とする都市戦線連合はこの国でも最も強い労働組合連合という評判だった。これは世紀の変わり目に起こった好況の間に全産業で推進された強力な組織化で成長した。雇用主は1900年の建設業ストライキおよび1901年の都市戦線連合のストライキの間に組織化を進め、建設業協議会の設立に繋がった。任意加入の問題が危機に瀕していた。市長がストライキ破りを保護するために市警を使ったことに労働者達が怒ったために、都市戦線連合のストライキの中から組合労働者党が生まれた。1902年に党公認でユージーン・シュミッツが市長に選ばれ、サンフランシスコは暫くの間、全米で唯一労働者に運営される都市となった。改革者の堕落と不謹慎が組み合わされ1907年の汚職告発に繋がった。 1910年、ロサンゼルスはまだ任意加入の状態であり、北部の雇用者はサンフランシスコも新たに任意加入とするよう脅しを掛けた。これに反応した労働者は1910年6月に代表を南部に送った。ロックアウトで仕事が無くなった金属業労働者1,200人に全国的まとめ役が派遣された。その後にロサンゼルスの労働者組織化を何年間も挫折させる出来事が起こった。1910年10月10日、「ロサンゼルス・タイムズ」印刷所で爆弾が破裂し、21人の労働者を殺した。 その後の10年間、組合の無い業種、伐採業、小麦農業、製材業で「世界産業労働組合」(IWW)が急速に成長し、鉱業、港湾および農業にその動きを拡げた。保安官の集団が抗議集会を破り、4人が殺されたホィートランド・ホップ暴動の後でIWWは大衆の注目を浴びた。これが畑仕事をする労働者を守る最初の法制化に繋がった。IWWは反組合運動や、新しい州法で無政府主義を犯罪とする中で組合員が告発されることで障害を受けた。IWWは1923年のサンペドロにおける海員ストライキにも関わり、アプトン・シンクレアが独立宣言を朗唱したことで逮捕された。IWWの中でも最も著名になった男トマス・ムーニーは間もなく労働者の関心を集める対象となりアメリカでも最も重要な政治犯となった。 ムーニー事件では10人が殺され、労働を数十年間にわたって傷つけた。1920年代、任意加入の動きがアメリカン・プランと呼ばれる共同戦略を通じて成功した。ある場合には、サンフランシスコの産業協会が100万ドルの資金を作って、1921年の建設業ストライキを破り、建設業組合の崩壊に導いた。この雇用者側の協会は1年に2回賃金をカットし、また金属産業協議会が敗れて、1907年以来有効だった協定を失った。海員組合も1921年に敗北を味わった。 労働運動は、1933年の全国産業復興法の成立と、オーストラリアの若い労働者ハリー・ブリッジズが労働者の指導者として現れたことで、1930年代に高まりを示した。国際港湾荷役労働者組合の支部が1933年にできた後の数週間で、港湾労働者の90%以上が加入した。ドック作業者は1934年3月7日にストライキを決議した。5月15日、海員組合は投票でストライキへの参加を決め、船舶事務員と免許士官の組織が続いた。7月5日、サンフランシスコの「大ストライキ」は、「血の木曜日」と呼ばれる事件で2人の労働者が殺され、数百人が棍棒で殴られ催涙ガスを浴びるということが起こり、カリフォルニアの労働組合の大半が西海岸港湾ストライキに参加することになった。太平洋海事連合は1935年に組織化された。 1930年代のサンフランシスコには12万人の組合員がいた。港湾荷役労働者はその組合が作った白い帽子に組合のボタンを付け、トラック運転手は組合員としてトラックを運転し、漁師、タクシー運転手、市街電車の車掌、電車運転士、新聞配達人、小売店の店員、ホテルの従業員、新聞記者が全て代表を持った。1933年から1934年は3万人だったロサンゼルスの労働組合員が、1938年の厳しい反ピケ条例にも拘わらず30年代遅くには20万人に成長した。しかし、ロサンゼルスは飛行機、自動車、ゴム、石油の大量生産産業とサンペドロの工場で組織化されていた。後に組合化の動きは音楽家、トラック運転手、建設業、映画、俳優、作家および監督にも拡がった。 農場労働者は組織化されず、労働は過酷で報酬は少なかった。1930年代、20万人の農場労働者が季節調整で州内を動いた。組合は土地所有者に対して「内陸行進」を非難し、この時農場労働者を組織化する初期の動きがあった。渓谷の町の多くが組織化の妨害のために反ピケ条例を後押しした。1933年から1934年に掛けて、農業ストライキの波が中央渓谷を襲い、インペリアル・バレーのレタス・ストライキやサンホアキン・バレーのコットン・ストライキが起こった。1936年、サリナスのレタス・ストライキでは、自警団の暴力が国中に衝撃を与えた。また1938年春、約300人の男女、子供が自警団によってグラスバレーやネバダシティの家から追い出された。 1938年のピケに対する住民投票提案「提案1号」は、州農民共済組合の解説者にファシスト(極右)と見なされ、大きな政治闘争となった。提案1号は投票で敗れた。間もなくカリフォルニアの組合が非白人組合員を認めるようになるにつれて、人種差別主義は弱まった。 第二次世界大戦の開始までに、カリフォルニアは高齢者支援法、雇用保険法、女性に対する週最大48時間労働、徒弟奉公法および職場安全規則を持つに至った。
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「組織労働者」の例文・使い方・用例・文例
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