第一共和国期
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1918年末のオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊から始まる「オーストリア革命」期では、今や主流派となった社会民主党左派の指導者としてオーストリア共和国樹立に貢献し、キリスト教社会党との連立政権(首班は長年の盟友レンナーであった)発足に際しては外相(在任:1918年11月 - 1919年7月 / 急逝したV・アドラーの後任)に就任した。外相としてはヴァイマル共和政下のドイツとの合邦(アンシュルス)をめざすが、ドイツ側の消極的態度とサン・ジェルマン条約の合邦禁止規定により挫折し辞任、「社会化委員会」委員長に就任した。 ここでバウアーら左派は、ボリシェヴィキのように即時に社会主義革命によりプロレタリア政権を樹立するのではなく、議会政治による「社会化」を通じて社会民主党の勢力を拡大し、将来の革命の機会をうかがうという待機主義的方針を採った。これとともに彼らは、第一次大戦やロシア革命の結果として労働運動・国際社会主義運動(インターナショナル運動)がボリシェヴィキ(およびコミンテルン=ロシア共産主義派)と修正主義派(および第二インター=社会改良主義派)に分裂しようとする状況を憂い、これを何とか再統合しようとする調整主義的立場をとり、ウィーン・インター(国際社会党行動同盟)結成の中心となった。 その後、連立政権は瓦解して社会民主党は政権から離脱、ウィーン・インターの企ても失敗に終わったが、バウアーは1920年から1934年まで社会民主党選出の国民議会議員となるとともに、1926年に採択された社会民主党の「リンツ綱領」起草の中心となり、「改良主義とボリシェヴィズムの間」に立つ「第三の道」としてのオーストリア社会主義の立脚点を明示した。これによりバウアーは両大戦間期の社会民主党の事実上の指導者としての地位を確かなものとした。またウィーン・インターを吸収して発足した社会主義労働者インターでも、F・アドラーとともに指導的役割を果たした。
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第一共和国期
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1948年5月10日 - UNTCOK監視下で初代総選挙実施。 7月17日 - 第一共和国(制憲)憲法制定 8月15日 - 李承晩が大韓民国政府の樹立を宣言、初代大統領に就任。’’’大韓民国’’’が独立国家となる。 10月19日 - 麗水・順天事件 1949年10月19日 - 共産党非合法化措置の断行。民主主義民族戦線傘下の南朝鮮労働党など133団体の登録を取り消し。 12月1日 - 国家保安法を制定公布 12月24日 - 聞慶虐殺事件 1950年5月30日 - 第2代総選挙、反李承晩系の南北協商派と中道勢力が過半数を占める。 6月25日 - 金日成率いる北朝鮮(韓国側呼称:北韓)からの韓国への先制攻撃で、朝鮮戦争勃発。 6月28日 - 朝鮮人民軍、ソウルを占領。(ソウル会戦) 7月26日 - 老斤里事件 夏 - 保導連盟事件 9月15日 - 仁川上陸作戦 9月28日 - 国連軍、ソウルを奪回。 10月 - 中華人民共和国から中国人民志願軍参戦。 1951年1月4日 - 中朝軍、ソウルを再度占領。 初頭 - 国民防衛軍事件 1月6日 - 江華良民虐殺事件 2月9日 - 居昌良民虐殺事件 3月14日 - 国連軍、ソウルを再奪回。 4月11日 - マッカーサー解任。 12月23日 - 李承晩大統領、与党自由党を結成 1952年1月8日 - 李承晩ラインの宣言 2月4日 - 第一大邦丸事件 4月25日 - 基礎自治体である市・邑・面の議会議員選挙、翌月の5月10日には道議会の議員選挙が行われた。→1952年韓国地方議会選挙 5月25日 - 政府は「共産ゲリラの掃討」を名目に、釜山と周辺地域23郡に非常戒厳令を布告、翌26日に野党系の国会議員多数がスパイ容疑で憲兵隊に連行され、恫喝される(釜山政治波動)。 7月4日 - 大統領を国会議員による間接選挙制から、国民からの直接選挙で選出する直選制に変更するための憲法改正案が可決される(抜粋改憲)。 8月5日 - 大統領選挙、直接選挙制によって実施された選挙で李承晩大統領が2回目の当選を果たす。 1953年7月27日 - 朝鮮戦争休戦協定締結。北朝鮮との軍事境界線(DMZ)確定。 1954年5月20日 - 第3代総選挙、与党自由党が過半数の議席を占める。 11月27日 - 大統領に重任制限規定を撤廃する事を主な内容とした憲法改正案が成立要件に必要な3分の2である136名にわずかに達せず否決された。しかし、四捨五入の論理を援用して135名の賛成をもってして改憲案が可決されたことを宣言(29日)、改憲案は与党自由党によって再可決された(→四捨五入改憲)。 1955年9月18日 - 民主国民党を中心とした反李承晩勢力が結集した保守政党の民主党が結成される。 1956年5月5日 - 民主党の大統領候補、申翼熙が遊説移動中の列車内で急死。 5月15日 - 大統領選挙、李承晩(自由党)が大統領に3度目の当選を果たす。同時に行なわれた副大統領選では、張勉(民主党)が当選。 8月8日 - 市・邑・面の首長と基礎議会の議員選挙。8月13日にはソウル特別市市議会と道議会の議員選挙が行われた。ソウルや釜山、大邱などの都市部では野党民主党が圧勝したが、全般的には与党自由党が過半数を占める結果となった。→1956年韓国地方選挙 9月28日 - 5月の大統領選挙で当選した張勉副大統領(民主党)が、狙撃を受ける(張勉副大統領暗殺未遂事件)。 11月10日 - 曺奉岩を中心とする進歩主義勢力が結集した進歩党が結成される。 1958年1月11日 - 野党進歩党の曺奉岩委員長ら党幹部が李承晩の次期大統領選挙当選の妨げになるとして、北朝鮮のスパイと接触したことなどを名目に国家保安法違反容疑で逮捕され曺奉岩が処刑(59年7月31日)される(進歩党事件、2011年に冤罪事件であったことが証明)。 2月16日 - 滄浪号ハイジャック事件 5月2日 - 第4代総選挙。不正選挙が横行して、与党自由党が圧勝したが、憲法改正に必要な議席数(総定数203議席の三分の二)には届かず。一方、野党民主党はソウル市を初めとする都市部で議席数を大幅に増やす。 1959年12月4日 - 新潟日赤センター爆破未遂事件 1960年3月15日 - 大統領選挙(三一五不正選挙) 4月19日 - 不正選挙を糾弾する大学生等がソウルでデモ、デモは全国に拡大。警官隊の発砲で死者多数(四月革命)。 4月27日 - 李承晩退陣
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