第一共和政、軍事政権
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「ポルトガルの歴史」の記事における「第一共和政、軍事政権」の解説
第一共和政の下でイエズス会などすべての修道会は廃止され、教会の財産が没収された。1911年に政教分離法が施行され、ポルトガルは教皇庁と断交する。同年5月に実施された制憲議会選挙の当選者は公務員、弁護士、医師などの都市部の中産階級で占められており、その結果労働者階級は共和政のブルジョア的性質に反発した。 新憲法は8月にブラジルとフランスを模範とする新憲法が公布されたが、憲法の公布直後に共和党は民主党、改進党、統一党に分裂して反目しあったため、内閣の安定は保たれなかった。1916年に内閣は第一次世界大戦への参戦を決定し、戦地に50,000を超える将兵が派遣されたが、戦費の負担は国民生活に重くのしかかる。1917年にシドニオ・パイスによる軍事クーデターが勃発し、翌1918年に大統領に就任したパイスによる独裁政治が開始される。だが、1918年12月にパイスは暗殺され、1921年までに18の内閣が交代した。1919年1月19日には王党派がリスボンとポルトで北部王国(英語版)の建設を宣言する事件が起きるが、同年2月に反乱は鎮圧される。 1926年5月28日に将軍マヌエル・ゴメス・ダ・コスタがブラガで軍事クーデターを起こし、リスボンに向けて進軍した(1926年5月28日クーデター)。陸軍の大部分はコスタに好意的な、あるいは中立の立場をとり、大統領ベルナルディーノ・マシャドはジョゼ・メンデス・カベサダスに全権を委任して辞職する。同年6月にコスタによって軍事政権が樹立され、第一共和政は破綻する。1926年6月3日からコスタ、カベサダス、アントニオ・オスカル・カルモナによる三頭政治が始められるが、カベサダスとコスタは相次いで失脚し、政治的野心を持たないカルモナが指導者に選出される。秩序の回復を名目に実施された新聞の検閲、議会の解散、人権の抑圧といったカルモナの政策に反発する一部の軍人と共和主義者は1927年2月にポルト、リスボンで反乱を起こすが失敗に終わる。ポルトの反乱の後、700人以上の軍人・市民が流刑に処され、既存の政治勢力を排除した軍部の独裁体制が確立された。マシャド、アフォンソ・コスタ、ジョゼ・ドミンゲス・ドス・サントス、ジャイメ・コルテザン、アントニオ・セルジオらの政治家はフランスに亡命し、共和国防衛同盟(パリ同盟)を結成して国外から反政府運動を支援した。 財政の危機に苦しむ軍事政権は国際連盟に借款を求めたが、共和国防衛同盟の働きかけを受けた国際連盟はポルトガルの財政管理を条件として課したため、政府は要求を拒絶する。1928年3月に大統領に選出されたカルモナはコインブラ大学の財政学教授アントニオ・サラザールを財相として招聘し、経済危機の解決にあたらせた。サラザールが実施した増税と歳出の引き締めによる財政の改善は高い評価を受け、1929年7月にアルトゥール・イヴェンス・フェラスが首相に就任した後もサラザールは現職にとどまった。1930年頃の世界恐慌の後、ポルトガルの貿易のパートナーであり、移民の受け入れ先ともなっていたアメリカ合衆国、ブラジルとの関係が絶たれていたが、植民地相を兼任していたサラザールはアフリカの植民地に目を向けて開発に着手し、利益を引き出していった。救世主として国民から信任を受けたサラザールは国政全体に指導力を有するようになり、1930年7月に「すべては国家のために」を標語として政党の結成を禁止し、非政党組織である国民同盟を結成した。
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