硫黄島とは? わかりやすく解説

硫黄島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/06 15:40 UTC 版)

ジョン・バジロン」の記事における「硫黄島」の解説

前線へ復帰認められたバジロンは、硫黄島侵攻目前第5海兵師団27海兵連隊第1大隊C中隊チャーリー・カンパニー)に配属された。1945年2月19日作戦当日は、機関銃分隊長として硫黄島レッド2区レッド・ビーチ2)に上陸したが、硫黄島は要塞化されており、日本軍米軍上陸して内陸部侵攻する地点集中砲火浴びせた部隊身動きがとれなくなったが、バジロンは単独日本軍陣地の脇を突破防御陣地トーチカの上乗って手榴弾爆弾などで攻撃するなどして、たった一人敵陣地を破壊し守備していた日本軍部隊壊滅させた。続いてバジロンは千鳥飛行場(米側呼称:Airfield Number 1)方面向かい激し迫撃砲重砲火のなか、地雷原嵌った米軍戦車支援し安全な場所まで誘導した次いで飛行場の端に沿って移動しようとしたところ迫撃砲弾金属片を喰らい、戦死した。 バジロンの行動は、海兵隊日本軍防衛線を突破する一助となり侵攻初期段階の上陸地点への攻撃減免させたと評価された。この勇敢な行為対し死後バジロンには海軍で2番目に栄誉ある海軍十字章授与されバージニア州アーリントン郡にあるアーリントン国立墓地埋葬された。未亡人となったリーナ・バジロンは1999年6月11日86歳で死去しカリフォルニア州リバーサイド国立墓地埋葬されているが、リーナ墓銘には「彼女は再婚しなかった(she never remarried)」と刻まれている。

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硫黄島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:59 UTC 版)

坂井三郎」の記事における「硫黄島」の解説

1944年昭和19年4月13日横須賀海軍航空隊配属台南空の上官だった中島正少佐によって、大村空で教官をしていた坂井横須賀空呼び寄せられた。 戦況の悪化絶対国防圏重要な一角であったサイパン島への米軍上陸を受け、横須賀航空隊出撃命令下り1944年昭和19年6月22日中島正少佐指揮零戦27機に参加し硫黄島へ進出中島訓練を見る限り坂井戦えるところまで目が治っていると考え、若いパイロット元気づけるためにも出てほしいと頼まれたことで、坂井は右目の視力が完全に治っていない状態で前線に戻ることになった横空派遣部隊は、硫黄島防衛加えマリアナ沖海戦勝利したばかりで、マリアナ諸島沖に展開の米海軍機動部隊第58任務部隊)を攻撃することも視野入れつつ、三沢基地練成中だった252空と共に零戦の他に艦上攻撃機天山艦上爆撃機彗星他も含めて急遽編成された「八幡空襲部隊」の傘下加えられた。 坂井著書では、6月24日7月4日7月5日に硫黄島で戦闘したことになっている戦闘詳報によれば、硫黄島で坂井参戦したのは、6月24日敵艦上機邀撃戦闘攻撃機援護だけである。 まだ八幡空襲部隊が硫黄島に移動集結であった6月24日早朝米海軍第58任務部隊第1群VF-1VF-2、VF-50航空隊グラマンF6F ヘルキャット戦闘機70機が、空母ホーネット空母ヨークタウン空母バターン発艦して硫黄島に来襲。これをレーダー探知して横須賀空25機、そして252空301空戦闘601飛行隊)の32機、合計57機の戦闘機6時20分に硫黄島上空迎撃上がる梅雨前線影響で高度4千メートル付近に厚い層が立ち込めるなか、迎撃機雲上下に分かれ7,8引き連れた坂井下組は、離陸後、硫黄島西岸下、高度3千メートル急上昇中のところ、早くもこの時点侵攻してきたF6Fヘルキャット戦闘機群に遭遇坂井属す下組離陸順番遅かったことで、予定の高度をとれず、硫黄島防空戦に突入する坂井は一機と旋回になって左ひねり込み誘いこみ巴戦撃墜視界利かない右側後方から、不意に戦闘機射撃受けていることに気付き途中から、肩バンド外して何度も右側振り返って右側視界補いつつ撃墜合計F6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜したという。 坂井はこの空戦終了時に、視力不足から、母艦帰還するF6Fヘルキャット戦闘機編隊味方零戦誤認して編隊加わり、敵戦闘機15機に包囲されたという。一方上空からの目撃証言によれば坂井囲まれたのは4機のラフベリーサークルであったという。坂井左旋回だけで逃げた話しているが、目撃証言によれば、右に左に逃げていたという。戦後坂井アメリカで攻撃してきた生き残り出会い坂井飛び方なら100機のグラマンでかかって落とせないと賞賛されたと語っている。 この早朝迎撃戦坂井小隊所属した僚機柏木美尾一飛曹と野口壽飛長が未帰還になっている当時の記録では、最初迎撃戦が行われた6月24日午後、米機動部隊攻撃発進16時35分、ウラカス島北東50海里、高度4,500mにおいて、30機以上のF6Fヘルキャット迎撃を受ける。編成零戦23機、彗星艦爆3機、天山艦攻9機(内、横空零戦隊は9機。戦闘機隊指揮官は、山口定大尉第二小隊長は大機雄大尉、第三小隊長は坂井。)となっている。 しかし、坂井著書では、迎撃戦後は体調不良のため数日地上待機命じられ7月5日天山8機と零戦9機の合計17機で、米機動部隊攻撃に向け、硫黄島基地出撃戦闘機隊指揮官は、山口定大尉第二小隊長に坂井第三小隊長は武藤曹長出撃前、横須賀空司令三浦三大佐より、「本日絶対に空中戦闘行ってならない雷撃機魚雷落としてならない戦闘機雷撃機うって一丸となって全機、敵航空母艦舷側体当たりせよ。」との訓示がなされ、特攻命令下されたと書いている。攻撃隊は米側レーダーにより捕捉され敵機攻撃された。命令にて零戦隊も空戦もできぬまま、天山次々と爆発起こし撃墜されてしまう。坂井反撃してF6Fヘルキャット1機を撃墜その間武藤機ともはぐれた坂井小隊3機は、敵艦隊を引き続き捜索するが叶わず、坂井硫黄島へ帰還決意する。ただ、片道前提に、帰路は全く念頭に置いていなかった状況で、正確な現在地もつかめず、日没迫るなか、硫黄島へ帰還絶望的であったが、坂井長年の勘で、日没後、奇跡的に硫黄島へ帰還を果たす。坂井は、二番機の志賀正美上飛曹と三番機の馬場八郎飛長とともに暗闇飛行場で、先に帰還した武藤曹長再会坂井武藤報告に行くと、三浦大佐状況報告聞いた後「御苦労」の一言があっただけだった坂井たちが生還したことでかえって後味が悪い思いとなっているのではないか語られている。 当時戦闘詳報では、攻撃隊の総合被害は未帰還零戦10天山艦攻7機(内、横空被害は未帰還零戦4機、天山艦攻7機)である。坂井著書戦死したとされている山口大尉は、この攻撃では戦死しておらず、山口大尉戦死は「7月4日」の第四次硫黄島上空邀撃戦であり、同日午後の米艦隊艦砲射撃により残存機全機破壊されている。また、7月5日に米機動部隊対す攻撃が行われた公式記録は無い。

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硫黄島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 03:45 UTC 版)

ハルゼー・パウエル (駆逐艦)」の記事における「硫黄島」の解説

機動部隊日本本土攻撃するために2月に再び出航したハルゼー・パウエル2月19日から硫黄島の戦いにおいて火力支援および空母護衛行った2月16日には攻撃機1機を撃墜し、他の多く航空機支援した

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