硫黄島
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前線への復帰が認められたバジロンは、硫黄島侵攻目前に第5海兵師団第27海兵連隊第1大隊C中隊(チャーリー・カンパニー)に配属された。1945年2月19日の作戦当日は、機関銃分隊長として硫黄島レッド2区(レッド・ビーチ2)に上陸したが、硫黄島は要塞化されており、日本軍は米軍が上陸して内陸部に侵攻する地点に集中砲火を浴びせた。部隊は身動きがとれなくなったが、バジロンは単独で日本軍陣地の脇を突破、防御陣地(トーチカ)の上に乗って手榴弾や爆弾などで攻撃するなどして、たった一人で敵陣地を破壊し、守備していた日本軍部隊を壊滅させた。続いてバジロンは千鳥飛行場(米側呼称:Airfield Number 1)方面に向かい、激しい迫撃砲・重砲火のなか、地雷原に嵌った米軍戦車を支援し安全な場所まで誘導した。次いで、飛行場の端に沿って移動しようとしたところ迫撃砲弾の金属片を喰らい、戦死した。 バジロンの行動は、海兵隊が日本軍の防衛線を突破する一助となり侵攻初期段階での上陸地点への攻撃を減免させたと評価された。この勇敢な行為に対し、死後バジロンには海軍で2番目に栄誉ある海軍十字章が授与され、バージニア州アーリントン郡にあるアーリントン国立墓地に埋葬された。未亡人となったリーナ・バジロンは1999年6月11日に86歳で死去し、カリフォルニア州リバーサイド国立墓地に埋葬されているが、リーナの墓銘には「彼女は再婚しなかった(she never remarried)」と刻まれている。
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硫黄島
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1944年(昭和19年)4月13日、横須賀海軍航空隊に配属。台南空の上官だった中島正少佐によって、大村空で教官をしていた坂井は横須賀空へ呼び寄せられた。 戦況の悪化、絶対国防圏の重要な一角であったサイパン島への米軍上陸を受け、横須賀航空隊に出撃命令が下り、1944年(昭和19年)6月22日、中島正少佐指揮の零戦27機に参加し、硫黄島へ進出。中島は訓練を見る限り坂井は戦えるところまで目が治っていると考え、若いパイロットを元気づけるためにも出てほしいと頼まれたことで、坂井は右目の視力が完全に治っていない状態で前線に戻ることになった。横空派遣部隊は、硫黄島防衛に加え、マリアナ沖海戦に勝利したばかりで、マリアナ諸島沖に展開の米海軍機動部隊(第58任務部隊)を攻撃することも視野に入れつつ、三沢基地で練成中だった252空他と共に、零戦の他に艦上攻撃機天山、艦上爆撃機彗星他も含めて急遽編成された「八幡空襲部隊」の傘下に加えられた。 坂井の著書では、6月24日、7月4日、7月5日に硫黄島で戦闘したことになっている。戦闘詳報によれば、硫黄島で坂井が参戦したのは、6月24日の敵艦上機邀撃戦闘と攻撃機隊援護だけである。 まだ八幡空襲部隊が硫黄島に移動集結中であった6月24日早朝、米海軍第58任務部隊第1群のVF-1、VF-2、VF-50航空隊のグラマンF6F ヘルキャット戦闘機約70機が、空母ホーネット、空母ヨークタウン、空母バターンを発艦して硫黄島に来襲。これをレーダー探知して、横須賀空の25機、そして252空と301空(戦闘601飛行隊)の32機、合計57機の戦闘機が6時20分に硫黄島上空に迎撃に上がる。梅雨前線の影響で高度4千メートル付近に厚い雲層が立ち込めるなか、迎撃機は雲上と雲下に分かれ、7,8機引き連れた坂井の雲下組は、離陸後、硫黄島西岸の雲下、高度3千メートルを急上昇中のところ、早くもこの時点で侵攻してきたF6Fヘルキャット戦闘機群に遭遇。坂井の属する雲下組は離陸の順番が遅かったことで、予定の高度をとれず、硫黄島防空戦に突入する。坂井は一機と旋回戦になって左ひねり込みに誘いこみ巴戦で撃墜、視界の利かない右側後方から、不意に敵戦闘機の射撃を受けていることに気付き、途中から、肩バンドを外して何度も右側を振り返って右側の視界を補いつつ撃墜、合計でF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜したという。 坂井はこの空戦の終了時に、視力不足から、母艦へ帰還するF6Fヘルキャット戦闘機編隊を味方零戦と誤認して編隊に加わり、敵戦闘機15機に包囲されたという。一方、上空からの目撃証言によれば、坂井が囲まれたのは4機のラフベリーサークルであったという。坂井は左旋回だけで逃げたと話しているが、目撃証言によれば、右に左に逃げていたという。戦後、坂井はアメリカで攻撃してきた生き残りと出会い、坂井の飛び方なら100機のグラマンでかかっても落とせないと賞賛されたと語っている。 この早朝の迎撃戦で坂井の小隊に所属した僚機の柏木美尾一飛曹と野口壽飛長が未帰還になっている。 当時の記録では、最初の迎撃戦が行われた6月24日の午後、米機動部隊攻撃に発進、16時35分、ウラカス島北東50海里、高度4,500mにおいて、30機以上のF6Fヘルキャットに迎撃を受ける。編成は零戦23機、彗星艦爆3機、天山艦攻9機(内、横空零戦隊は9機。戦闘機隊指揮官は、山口定夫大尉、第二小隊長は大機一雄大尉、第三小隊長は坂井。)となっている。 しかし、坂井の著書では、迎撃戦後は体調不良のため、数日地上待機を命じられ、7月5日、天山8機と零戦9機の合計17機で、米機動部隊攻撃に向け、硫黄島基地を出撃。戦闘機隊指揮官は、山口定夫大尉、第二小隊長に坂井、第三小隊長は武藤飛曹長。出撃前、横須賀空司令の三浦鑑三大佐より、「本日は絶対に空中戦闘を行ってはならない。雷撃機も魚雷を落としてはならない。戦闘機、雷撃機うって一丸となって全機、敵航空母艦の舷側に体当たりせよ。」との訓示がなされ、特攻命令が下されたと書いている。攻撃隊は米側レーダーにより捕捉され敵機に攻撃された。命令にて零戦隊も空戦もできぬまま、天山は次々と大爆発を起こし、撃墜されてしまう。坂井は反撃して、F6Fヘルキャット1機を撃墜。その間に武藤機ともはぐれた坂井小隊3機は、敵艦隊を引き続き捜索するが叶わず、坂井は硫黄島への帰還を決意する。ただ、片道を前提に、帰路は全く念頭に置いていなかった状況で、正確な現在地もつかめず、日没迫るなか、硫黄島への帰還は絶望的であったが、坂井の長年の勘で、日没後、奇跡的に硫黄島への帰還を果たす。坂井は、二番機の志賀正美上飛曹と三番機の馬場八郎飛長とともに暗闇の飛行場で、先に帰還した武藤飛曹長と再会。坂井と武藤で報告に行くと、三浦大佐は状況報告を聞いた後「御苦労」の一言があっただけだった。坂井たちが生還したことでかえって後味が悪い思いとなっているのではないかと語られている。 当時の戦闘詳報では、攻撃隊の総合被害は未帰還:零戦10機 天山艦攻7機(内、横空被害は未帰還零戦4機、天山艦攻7機)である。坂井の著書で戦死したとされている山口大尉は、この攻撃では戦死しておらず、山口大尉の戦死は「7月4日」の第四次硫黄島上空邀撃戦であり、同日午後の米艦隊の艦砲射撃により残存機は全機破壊されている。また、7月5日に米機動部隊に対する攻撃が行われた公式記録は無い。
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硫黄島
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「ハルゼー・パウエル (駆逐艦)」の記事における「硫黄島」の解説
機動部隊は日本本土を攻撃するために2月に再び出航した。ハルゼー・パウエルは2月19日から硫黄島の戦いにおいて火力支援および空母の護衛を行った。2月16日には攻撃機1機を撃墜し、他の多くの航空機を支援した。
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