白豪主義とアボリジニの悲劇とは? わかりやすく解説

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白豪主義とアボリジニの悲劇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:17 UTC 版)

アボリジニ」の記事における「白豪主義とアボリジニの悲劇」の解説

西洋人オーストラリア「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニオーストラリア内に生活していた。しかし1920年には約7万人にまで減少した人口減少最大要因ヨーロッパ人旧大陸から持ち込んだ伝染病天然痘梅毒インフルエンザ麻疹など)の流行よるもの考えられている。それまでオーストラリア旧大陸とはほぼ隔絶されていたため、アボリジニはこれらに対す免疫持っていなかったのである1788年からのイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民多く占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くアボリジニ虐殺した。「今日アボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記され日記がサウスウエールズ州の図書館実際に残されている。 1803年にはタスマニアへの植民が始まる。入植当時3,000〜7,000人の人口であったが、1830年までには約300人にまで減少した[要ページ番号]。虐殺の手段は、同じくスポーツハンティング毒殺組織的なアボリジニー襲撃隊も編成されたという。数千集団離島置き去りにして餓死させたり、水場に毒を流したりするといったことなども行われたまた、1828年には開拓地入り込むアボリジニを、イギリス人兵士自由に捕獲殺害する権利与え法律施行された。捕らえられアボリジニたちは、ブルニー島キャンプ収容され食糧事情悪かったことや病気流行したことから、多く死者出た。 これによりアボリジニ人口90%以上減少しヴィクトリアニューサウスウェールズアボリジナル人口は、10分の1以下になった。さらに1876年には、白人混血していない唯一のタスマニア・アボリジナルの女性と言われるトルガナンナ死亡した。多い時期で約37千人ほどいたタスマニア・アボリジニは激減した。なお、タスマニアアボリジニが「絶滅」したという記述をしている書物も多いが、それは間違いであり、混血をしつつも、現在もタスマニアアボリジニコミュニティ存在しており、文化伝承権利運動取り組んでいる。 特に東海岸沿岸部等の植物相豊かな地域居住していたアボリジニは、当初イギリス移民との平和関係を保っていたものの、後の保護政策名を借りた強制的な移住もあり、この入植者たちによるハンティングという惨劇語り継ぐ者をも残さず姿を消している。 20世紀前半には、アボリジナル絶滅寸前人種死にゆく人種、死にゆく民族)として分類されるうになる。この死に行く民族という規定は、1937年まで続く。死に行く民族という規定廃止されると、今度積極的に白人社会同化させる方針強化されるイギリス人らの入植開始当初50-100万人いたアボリジナル人口は、1920年頃には約7万人にまで減少していた。同1920年時のオーストラリア政府先住民族保護政策始め、彼らを白人影響の濃い地域から外れた保護区域移住させたが、これはむしろ人種隔離政策的な性質あったようである。元々オーストラリア移住した白人は、犯罪者大半占めていた。そして、徹底的な人種差別政策いわゆる白豪主義をもって移民制限及びアボリジニへの弾圧政策続けたまた、1869年から公式的には1969年までの間、アボリジニの子供や混血児(『ハーフ・カースト(英語版)』と呼ばれ売春婦として利用されることがあった)を親元から引き離し白人家庭寄宿舎養育するという政策が行なわれた。様々な州法などにより、アボリジニ親権ことごとく否定されアボリジニの子供も「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという考え方に基づくものと建前上は定義されていたが、実際アボリジニ文化絶やしアボリジニ存在自体消滅させるのが目的であった政府教会主導して行なわれたこの政策子供のおよそ1割が連れ去られ、彼らの行き先実際に白人家庭でも寄宿舎でもなく、強制収容所孤児院などの隔離施設であった。そして、隔離施設から保護放棄されたり、虐待受けたり遺棄された者も少なくはなかった。結果として彼らからアボリジニとしてのアイデンティティ喪失させることとなった。彼らは"Stolen Generation"(盗まれた世代)、または"Stolen Children" (盗まれ子供たち)と呼ばれている。なお、「盗まれた世代」の政策実際に徹底され行われていたか、またどの程度規模だったのかは、いまだにわかっていない。1920年から1930年の間だけで、混血も含む10万人のアボリジニ児童親元から引き離されて、故郷から数百キロ時にキロ以上も離れた監獄とも言える劣悪な強制収容所送り込まれた。 無論アボリジニも全くの無抵抗だったわけではなかった。これらの政策に対してデモ暴動起こすものも少なくなかったが、結果として白人たちの敵愾心煽るとどまった一方不毛な乾燥地域である内陸部アボリジニ周辺厳し自然環境守られながらどうにか固有文化を維持し続けた今日でもアボリジニ文化史跡沿岸部都市より隔絶され内陸地に多く残る。近代アボリジニ激減と、文字文化を持たなかったことから文化的痕跡残さず消滅した部族多く、彼らの言語や文化系統調査する試み進んでいない。音声的に完全に失われた言語多く、それらの民俗学調査は「既に大半ピース失われたパズル」になぞらえられている。 その後アボリジナル人口徐々に回復し1996年には約35万人になった。これはオーストラリア総人口の約2%である。

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