消費税執行への戦い
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「ルビー・ラフーン」の記事における「消費税執行への戦い」の解説
ラフーンの政権は世界恐慌の経済的困難さに直面することになった。多くの改善を提案する一方で、その計画を実行するための金が、州の予算には無かった。就任した最初の1年間で、州の予算から1,150万ドルの支出を削減したが、それでも歳出超過だった。その負債をカバーするために、州は利子を上乗せしたワラント債を発行した。1931年、このワラント債が州歳入の24.2%を占めた。1932年には40.2%にもなった。ラフーンは歳入を増やすために、1932年に2%の消費税を提案した。この提案は商人や一般市民に極めて不人気であり、州議会を通過する見込みは薄かった。1932年3月2日、反税抗議者100名の暴徒が州知事公舎を襲い、内装品に危害を与えた。ラフーンは新税法案を通すために、税率を僅か1%にまで落とすことに合意した。この提案は下院を通過したが、上院の委員会が本会議に掛けることを拒否した。 この消費税の提案で民主党内全体と特にラフーンの閣僚の間に亀裂を生んだ。州議会上院の議長として副知事のA・B・"ハッピー"・チャンドラーは、議会で消費税に反対する派を率いた。高規格道路コミッショナーのベン・ジョンソンはチャンドラーの側に立ち、元はラフーンの支持者だったアリー・ヤングやJ・ダン・タルボットも同様だった。ラフーンは反対されることへの報復として、議会会期の終わりに資産税削減への割り当て700万ドルとその手段に拒否権を使った。この会期で成立した数少ない法案の中には、高規格道路局を再編すること、州の慈善委員会を党派的政体とすること、釣り・猟委員会をスポーツマンの統制から外すことがあった。選挙区再編法案が会期の終わりに急遽成立し、最新の国勢調査に従ってアメリカ合衆国下院議員を選ぶ選挙区を11から9に減らしたが、ゲリマンダーだという告発があって法案が縺れ、1932年の下院議員選挙では有効にならなかった。その結果その年に選ばれたケンタッキー選出議員は全て州全体を選挙区に選ばれた。「ルイビル・クーリエ・ジャーナル」は1932年の州議会会期を「ケンタッキー州の歴史でも最悪の会期」と呼んだ。 ラフーンは経済危機に対して、1933年3月1日から4日間銀行休日とすると宣言することで応じた。その休日を2回延長し、終わったのは3月18日だった。タバコ農家かから低価格の苦情が出たことに対応して、その年12月にはバーリータバコの市場を閉鎖した。1932会計年度末に州の財政は200万ドルの赤字だった。ケンタッキー州はマッチングファンドに必要とされる資金を調達できなかったために、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策でも然るべき財政援助を得られなかった。 ラフーンは消費税法案を通すと心に決め、この問題を検討するために特別会期は要求しないと誓った。しかし、1933年8月、消費税の別名である「総合領収税」を議論するために特別会期を要求することになった。ジョンソンとチャンドラーが再度ラフーンの計画に対する反対派を率いた。ラフーンは彼らをアリー・ヤングやアメリカ合衆国下院議員のジョン・Y・ブラウン・シニア等と共に、「議事堂を感染させたこともこれまで無かったような最も狡猾なロビー(圧力団体)」と呼んだ。さらに、その消費税法に対する反対は「一群のニューヨーク・ユダヤ人」によって財政の裏付けが行われていると非難したということである。ラフーンの説得にも拘わらず、消費税法案は再度否決された。 1934年に州議会通常会期が招集されたときは、3つに分裂していた。ほぼ3分の1が共和党員、3分の1がラフーンを支持する民主党員、残り3分の1が反ラフーンの民主党員だった。ラフーンと政治ボスのトム・レイは、梃子として共和党員の選挙区に新しい道路を通すという約束を使い、共和党員と同盟を結んだ。この二党同盟により、公立高等教育評議会の設立、就学期間を6か月以上延長し、16歳まで就学を義務付けることなど、教育のためになる手段を幾つか法制化することに成功した。ウィスキー税をガロン当たり2セントから5セントに上げることで税収増が得られた。ラフーンの二党同盟は州の委員会と部局を69から24に減らす州政府再編成法案も成立させ、州の従業員数も削減した。しかしこの法案の真の標的はラフーンの政敵だった。この法は副知事と州監査官の権限を減らすことであり、どちらも政敵だった。中でも重要なのは、副知事を州議会上院議長の職から外したことだった。またこの法は知事に州役員の指名職を解任する権限も与えていた。 消費税の反対者を無力化した上で、ラフーンは議会に州の歳入と自動車税を下げるよう奨励し、そのことで消費税を除けば歳入の代替資源がないようにできると考えた。州議会は要請された削減案を通し、1934年7月、ラフーンは消費税を検討するための特別会期を招集した。政権寄りの役人が新税賛成のパレードとデモを行った。これと対照的に100人の失業者集団がフランクフォートを行進し、財政的救済を要求した。彼らの何人かがラフーンに対して殺害の脅しを行い、州軍が知事公舎を取り囲んで保護した。反増税派は議会手続きを駆使して投票を1週間遅らせたが、この会期末に3%消費税法案が成立した。「ヒッピティ・ホップでおもちゃ屋へ行って赤い風船を買う。あなたに1ペニー、私に1ペニー、ルビー・ラフーンに1ペニー」と子供歌に変えてこの税が皮肉られた。この特別会期に続いて、ラフーンはサナトリウムに入り、疲労の治療を受けた。 1934年、ラフーンは州東部の炭鉱で労働組合が行う暴力を研究するために州軍長官のヘンリー・デンハートを派遣した。デンハートの研究で、「実質的な恐怖支配が存在し...言論の自由や平和的集会の権利がほとんどなくなっている」ことが分かった。しかしラフーンは組織化された労働者の支援に重きを置き、デンハートの報告からほとんど何も採用しなかった。
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