流民決起とは? わかりやすく解説

流民決起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 05:48 UTC 版)

羅尚」の記事における「流民決起」の解説

10月辛冉苾は共に「羅侯(羅尚)は貪欲決断力がない。今のままでは、ただ流民どもに姦計を成す時間与えているだけだ。李特兄弟武勇優れており、我ら奴等捕虜となるやもしれぬ。今すぐ策を実行に移すべきであり、羅尚相談する値しない」と話し合い遂に羅尚相談せずに、密かに広漢都尉曽元・牙門張顕・劉並らに歩兵騎兵3与えて李特陣営奇襲させた。羅尚はこれを聞くと、止むを得ず督護田佐を派遣し、曽元らを援護させた。だが、李特はこれを読んでおり、既に伏兵配置していたので、辛冉軍は大敗喫して田佐・曽元・張顕が戦死した李特は彼らの首を羅尚辛冉の下へ届った。羅尚諸将へ「奴らはいずれ去るはずだったのだ。だが、広漢太守辛冉)の奴が独断動き、敵の気勢高めてしまった。こうなってしまった今、どうやって収拾をつけるというのだ!」と嘆いた李特配下驃騎将軍李輔・驍騎将李驤広漢を守る辛冉幾度も破ると、羅尚苾と費遠を派遣して辛冉救援させたが、彼らは李特恐れて進軍しなかった。辛冉連敗続けて江陽逃走した李特広漢入城し拠点とした。李特はさらに兵を進めて成都向かい羅尚攻撃した羅尚閻式手紙送り李特らを説得するよう求めたが、閻式返書送り辛冉狡猾であり、曽元は小人であり、李叔平苾の字)は将の器にありません。私はかつて卿の為を思い流民達への処遇進言しました。人というのは郷里想うものであり、故郷へ戻りたくない者などおりません。ただ、流民達は食糧求めて避難したばかりであり、冬まで待って欲しいと頼みましたが、聞き入れませんでした。私の意見聞いていれば九月には流民集合し十月には帰路就いたはずですが、今となっては何をやっても手遅れです」と述べた羅尚城郭ひきこもって固く守り梁州寧州救援求めた羅尚李特連戦連敗喫し都安から郫まで水路沿って七百里に渡る陣を築き李特対峙した。また、梁州と南夷校尉援軍求めた302年河間王司馬顒は李特討伐為に護衛博を梓潼進軍させたが、李蕩李雄敗れて城を捨てて逃走した。南夷校尉李毅は兵5千を派遣して羅尚救援させると、羅尚は督護張亀に繁城を攻撃させたが、李特撃破された。李蕩巴西郡到来すると、巴西郡丞毛植・五官襄珍は巴西郡ごと李蕩降伏した8月朝廷派遣した広漢郡太守張徴が李特敗れて討ち死にした李特配下の寋碩は巴郡墊江まで軍を進めてこの地を占領した李特李驤を毗派遣すると、羅尚迎撃出た敗れた羅尚再度数千人を派遣した李驤に再び敗れ武器奪われ陣門焼かれた。羅尚配下張興派遣し李驤偽装投降し軍中様子観察させた。李驤の軍が2千人満たないのを知ると、張興宵闇乗じて陣営から逃げ、このことを羅尚報告した。これを受け、羅尚精鋭1万余り李驤攻撃為に派遣し張興案内をさせた。彼らは口に銜を含むと、李驤陣営夜襲した。羅尚大勝し攀を討ち取り李驤敗走させた。だが、李驤李流軍と合流すると、進んできた羅尚軍を迎撃して大い破った羅尚の兵で敗れて帰還できた者は10人のうち1、2人に過ぎなかった。司馬顒派遣した梁州刺史許雄も軍を派遣して李特攻撃したが、李特はこれを破った303年1月李特進撃し羅尚水上軍を破ると、蜀郡太守徐倹成都少城を挙げて降伏した羅尚成都太城に籠城して守り固めた李流進んで江西屯すると、羅尚大い恐れて使者派遣して講和求めた朝廷荊州刺史宗岱・建平郡太守孫阜に水軍3与えて羅尚救援させると、李特李蕩蜀郡太守李璜派遣して徳陽郡太守任臧を救援させた。 蜀の人々大い李特恐れて集落築いて降伏していたが、宗岱と孫阜の軍が士気高く勢いがあった事から、各集落二心抱いていた。益州兵曹従事任叡は羅尚へ「李特悪逆であり、民衆に対して暴虐な振る舞いをしておりますまた、兵を分散させて各々集落配備しており、自らへの備えをなしておりません。天が彼を滅ぼそうとしているのです。各地集落告げ、日を選んで内外から攻撃すれば必ず破ることが出来でしょう」と進言した。羅尚は夜の間に任叡を集落派遣し2月10日同時に李特攻撃するよう命令下した。更に、任叡は偽って李特投降した李特成都城内様子聞くと、任叡は「食糧はすでに尽きかけており、財物と布絹があるのみです」と答えて李特油断させた。さらに家へ戻ることを求めると、李特はこれを許した。任叡は陣営を出ると成都太城に帰り李特状況羅尚報告した2月羅尚大軍派遣して李特陣営総攻撃掛け2日渡って争った。これに各集落一斉に呼応した為、兵が少なかった李特大敗喫し敗残兵纏め上げると新繁に退いた羅尚の軍が撤退すると、李特転進し追撃し三十里余りに渡って転戦した。だが、羅尚が再び大軍率いて迎撃すると、李特の軍は大い打ち破られ李特戦死した羅尚李特の屍を焼き払い、首を洛陽へ送った。弟の李流後を引き継いだ。宗岱・孫阜は徳陽攻略し李特配下の寋碩を捕えた。

※この「流民決起」の解説は、「羅尚」の解説の一部です。
「流民決起」を含む「羅尚」の記事については、「羅尚」の概要を参照ください。


流民決起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 04:36 UTC 版)

李特」の記事における「流民決起」の解説

10月李特陣営二つ築き李特自身は北営に、李流東営に留まらせた。辛冉苾はともに「羅侯(羅尚)は貪欲決断力がない。今のままでは、ただ流民どもに姦計を成す時間与えているだけだ。李特兄弟武勇優れており、我ら奴等捕虜となるやもしれぬ。今すぐ策を実行に移すべきであり、羅尚相談する値しない」と話し合った。そして、広漢都尉曽元・牙門張顕・劉並らに密かに歩兵騎兵3与え李特陣営奇襲させた。羅尚はこれを聞くと、止むを得ず督護田佐を派遣し、曽元らを援護させた。李特初めからこういう事態陥ることを分かっていたので、武具修繕し兵器磨き臨戦態勢で彼らを待ち構えていた。曽元等が流民陣営迫っても、李特悠然として動かず敵軍半数が陣に侵入したところで伏兵襲撃命じた。これにより敵軍大半討ち果たし、田佐・曽元・張顕を戦死させた。そして彼らの首を羅尚辛冉の下へ届った。羅尚諸将へ「奴らはいずれ去るはずだったのだ。だが、広漢太守辛冉)の奴が独断動き、敵の気勢高めてしまった。こうなってしまった今、どうやって収拾をつけるというのだ!」と嘆いたここにおいて、六郡の流民達は李特首領推した部曲李含上邽県令任臧・始昌県令閻式諫議大夫攀・陳倉県令武・陰平県令李遠将兵都尉楊褒らは上書し、梁統竇融推戴し故事従い李特を行鎮北大将軍推挙し正式な手順則り爵位官位授けた李特李流に行鎮東将軍、東督護と名乗らせ、東営流民指揮させた。又、李輔驃騎将軍李驤を驍騎将軍に任じ広漢を守る辛冉攻撃させてその軍勢幾度も破った羅尚苾と費遠を派遣して辛冉救援させたが、彼らは李特恐れて進軍しなかった。辛冉連敗続け、策も無く気力尽き果てて江陽逃走した李特広漢入城するとそこを拠点とし、超を広漢郡太守任じたその後、さらに兵を進めて成都向かい羅尚攻撃した羅尚閻式手紙送り李特らを説得するよう求めたが、閻式聞き入れなかった。羅尚城郭ひきこもって固く守り梁州寧州救援求めた李特長子李始武威将軍に、次子李蕩鎮軍将軍に、少子李雄前将軍に、李含西夷校尉任じたまた、李含の子国・李離・任回・恭・上官晶・攀・費佗らを将帥とし、任臧・上官惇・楊褒・楊珪・王達・麹歆ら爪牙とし、李遠李博・夕斌・厳檉・上官琦・李濤王懐らを僚属とし、閻式謀主とし、何巨・趙粛腹心とした。 羅尚貪欲かつ残忍であったため民衆嫌われていた。一方で李特は法を緩めて簡略にし、貧民には施し与えて労役軽減し賢者礼遇不遇の士を取り立て軍規政務粛然としていた。そのため、蜀の民衆は「李特良いが、羅尚我らを殺す」と謡い、李特支持した羅尚李特連戦連敗喫し都安から郫まで水路沿って七百里に渡る陣を築き李特対峙した。また、梁州と南夷校尉援軍求めた302年河間王司馬顒は李特討伐の為、督護衛博を梓潼進軍させ、朝廷は張徴を広漢郡太守任じて徳陽進軍させた。さらに、南夷校尉李毅は兵5千を派遣して羅尚救援させた。羅尚は督護張亀を繁城へ派遣した李特は、李蕩李雄を陽沔へ派遣して衛博を攻撃させた。そして連日争った結果、これを撃破し敵軍大半殺した恐れた梓潼郡太守張演は城を捨てて逃走した李特自身も張亀を攻撃し、これを大い打ち破った李蕩は衛博を追撃して漢徳に至ると、衛博は葭萌逃走した李蕩進軍続けて巴西攻撃すると、巴西郡丞毛植・五官襄珍は郡をもって李蕩降伏した李蕩降した郡を慰撫した為、民衆大い安心した李蕩がさらに軍を進めて葭萌攻撃すると、衛博はさらに遠く逃れ彼の軍はみな李蕩降伏した司馬顒新たに許雄梁州刺史任じ李特討伐に当たらせた。 この後李特大将軍大都督・二州諸軍事・益州牧を自称した8月李特は軍を進めて張徴を攻撃した。張徴は険阻な地に拠って李特連日対峙した。この時、李特は軍を半分分けて李蕩率いさせており、張徴は李特陣営手薄であると知り、山に沿って歩兵派遣し攻撃した李特迎撃したが不利に陥り、地勢にも阻まれ為す術無かった。羅準・任道らは撤退進言したが、李特李蕩救援信じておりにこれを認めなかった。李蕩救援駆け付ける死に物狂い奮戦し迎え撃って来た張徴の軍を壊滅させて李特救った。張徴が退却しようとすると、李特はこれを見逃して涪へ還そうと思ったが、李蕩司馬王辛は「張徴の軍は連戦して士卒は傷ついており、智勇ともに尽きております。これに乗じて捕虜とすべきです。もしこれを逃がせば、張徴は疲人を養い死者回収し、他の軍と合流してしまうでしょうそうなれば容易に対処することは叶わなくなります」と進言した。李特はこれに従い、再び張徴を攻撃し、張徴は包囲抜けて逃走図った李蕩水陸両面からこれ追撃し、張徴を殺害した。さらに、張徴の子である張存生け捕りにしたが、張徴の遺体彼に渡して帰らせてやった。 同時期、李特は寋碩を徳陽郡太守任じると、寋碩は巴郡墊江まで軍を進め、この地を占領した李特李驤命じ攀・任回・と共に駐軍させて羅尚への備えとした。羅尚迎撃に出るも、李驤らはこれを破った羅尚再度数千人を派遣すると、李驤はまたこれを破って武器奪い、敵の陣門焼いた李流は軍を進めて成都の北に軍を置いた羅尚配下張興派遣し李驤偽装投降し軍中様子観察させた。李驤の軍は2千人満たないのを知ると、張興宵闇乗じて陣営から逃げ、このことを羅尚報告した羅尚精鋭1万余り李驤攻撃為に派遣し張興案内をさせた。彼らは口に銜を含むと、李驤陣営夜襲した。これにより攀は迎撃する戦死し李驤将士とともに李流陣営逃げた李流李驤残兵合わせると、進んできた羅尚軍を迎撃し、大い破った羅尚の兵で敗れて帰還できた者は10人のうち1、2人に過ぎなかった。梁州刺史許雄も軍を派遣して李特攻撃したが、李特はこれを破った303年1月李特進撃し羅尚水上軍を破ると、成都侵攻した蜀郡太守徐倹成都少城を挙げて降伏し李特李瑾蜀郡太守任じてこれを慰撫させた。李特は少城へ入城すると、年号建初定めて自立宣言し、その勢力圏内に大赦下した城内で馬を徴発して軍馬にしたが、それ以外略奪は行わなかった。羅尚成都太城に籠城し、守り固めた李流進んで江西屯すると、羅尚大い恐れ使者派遣して講和求めた

※この「流民決起」の解説は、「李特」の解説の一部です。
「流民決起」を含む「李特」の記事については、「李特」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「流民決起」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「流民決起」の関連用語

1
6% |||||

2
4% |||||

流民決起のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



流民決起のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの羅尚 (改訂履歴)、李特 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS