流民決起
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10月、辛冉と李苾は共に「羅侯(羅尚)は貪欲で決断力がない。今のままでは、ただ流民どもに姦計を成す時間を与えているだけだ。李特兄弟は武勇に優れており、我らは奴等の捕虜となるやもしれぬ。今すぐ策を実行に移すべきであり、羅尚は相談するに値しない」と話し合い、遂に羅尚に相談せずに、密かに広漢都尉曽元・牙門張顕・劉並らに歩兵・騎兵3万を与えて李特の陣営を奇襲させた。羅尚はこれを聞くと、止むを得ず督護田佐を派遣し、曽元らを援護させた。だが、李特はこれを読んでおり、既に伏兵を配置していたので、辛冉軍は大敗を喫して田佐・曽元・張顕が戦死した。李特は彼らの首を羅尚・辛冉の下へ届った。羅尚は諸将へ「奴らはいずれ去るはずだったのだ。だが、広漢(太守の辛冉)の奴が独断で動き、敵の気勢を高めてしまった。こうなってしまった今、どうやって収拾をつけるというのだ!」と嘆いた。 李特配下の驃騎将軍李輔・驍騎将軍李驤が広漢を守る辛冉を幾度も破ると、羅尚は李苾と費遠を派遣して辛冉を救援させたが、彼らは李特を恐れて進軍しなかった。辛冉は連敗を続けて江陽へ逃走した。李特は広漢に入城して拠点とした。李特はさらに兵を進めて成都へ向かい、羅尚を攻撃した。羅尚は閻式へ手紙を送り李特らを説得するよう求めたが、閻式は返書を送り「辛冉は狡猾であり、曽元は小人であり、李叔平(李苾の字)は将の器にありません。私はかつて卿の為を思い、流民達への処遇を進言しました。人というのは郷里を想うものであり、故郷へ戻りたくない者などおりません。ただ、流民達は食糧を求めて避難したばかりであり、冬まで待って欲しいと頼みましたが、聞き入れませんでした。私の意見を聞いていれば九月には流民が集合し、十月には帰路に就いたはずですが、今となっては何をやっても手遅れです」と述べた。羅尚は城郭にひきこもって固く守り、梁州・寧州に救援を求めた。羅尚は李特に連戦連敗を喫し、都安から郫水まで水路に沿って七百里に渡る陣を築き李特と対峙した。また、梁州と南夷校尉に援軍を求めた。 302年、河間王司馬顒は李特討伐の為に督護衛博を梓潼へ進軍させたが、李蕩・李雄に敗れて城を捨てて逃走した。南夷校尉李毅は兵5千を派遣して羅尚を救援させると、羅尚は督護張亀に繁城を攻撃させたが、李特に撃破された。李蕩が巴西郡に到来すると、巴西郡丞毛植・五官襄珍は巴西郡ごと李蕩に降伏した。 8月、朝廷が派遣した広漢郡太守張徴が李特に敗れて討ち死にした。李特配下の寋碩は巴郡の墊江まで軍を進めてこの地を占領した。 李特は李驤を毗橋に派遣すると、羅尚は迎撃に出たが敗れた。羅尚は再度数千人を派遣したが李驤に再び敗れ、武器は奪われて陣門が焼かれた。羅尚は配下の張興を派遣し、李驤に偽装投降して軍中の様子を観察させた。李驤の軍が2千人に満たないのを知ると、張興は宵闇に乗じて陣営から逃げ、このことを羅尚へ報告した。これを受け、羅尚は精鋭1万人余りを李驤攻撃の為に派遣し、張興に案内をさせた。彼らは口に銜枚を含むと、李驤の陣営を夜襲した。羅尚は大勝して李攀を討ち取り、李驤を敗走させた。だが、李驤は李流軍と合流すると、進んできた羅尚軍を迎撃して大いに破った。羅尚の兵で敗れて帰還できた者は10人のうち1、2人に過ぎなかった。司馬顒が派遣した梁州刺史許雄も軍を派遣して李特を攻撃したが、李特はこれを破った。 303年1月、李特は進撃して羅尚の水上軍を破ると、蜀郡太守徐倹は成都少城を挙げて降伏した。羅尚は成都太城に籠城して守りを固めた。李流が進んで江西に屯すると、羅尚は大いに恐れて使者を派遣して講和を求めた。 朝廷は荊州刺史宗岱・建平郡太守孫阜に水軍3万を与えて羅尚を救援させると、李特は李蕩と蜀郡太守李璜を派遣して徳陽郡太守任臧を救援させた。 蜀の人々は大いに李特を恐れて集落を築いて降伏していたが、宗岱と孫阜の軍が士気が高く勢いがあった事から、各集落は二心を抱いていた。益州兵曹従事任叡は羅尚へ「李特は悪逆であり、民衆に対して暴虐な振る舞いをしております。また、兵を分散させて各々の集落へ配備しており、自らへの備えをなしておりません。天が彼を滅ぼそうとしているのです。各地の集落に告げ、日を選んで内外から攻撃すれば必ず破ることが出来るでしょう」と進言した。羅尚は夜の間に任叡を集落へ派遣し、2月10日に同時に李特を攻撃するよう命令を下した。更に、任叡は偽って李特に投降した。李特が成都太城内の様子を聞くと、任叡は「食糧はすでに尽きかけており、財物と布絹があるのみです」と答えて李特を油断させた。さらに家へ戻ることを求めると、李特はこれを許した。任叡は陣営を出ると成都太城に帰り、李特の状況を羅尚に報告した。 2月、羅尚は大軍を派遣して李特の陣営へ総攻撃を掛け、2日に渡って争った。これに各集落が一斉に呼応した為、兵が少なかった李特は大敗を喫し、敗残兵を纏め上げると新繁に退いた。羅尚の軍が撤退すると、李特は転進して追撃し、三十里余りに渡って転戦した。だが、羅尚が再び大軍を率いて迎撃すると、李特の軍は大いに打ち破られ、李特は戦死した。羅尚は李特の屍を焼き払い、首を洛陽へ送った。弟の李流が後を引き継いだ。宗岱・孫阜は徳陽を攻略し、李特配下の寋碩を捕えた。
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流民決起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 04:36 UTC 版)
10月、李特は陣営を二つ築き、李特自身は北営に、李流を東営に留まらせた。辛冉と李苾はともに「羅侯(羅尚)は貪欲で決断力がない。今のままでは、ただ流民どもに姦計を成す時間を与えているだけだ。李特兄弟は武勇に優れており、我らは奴等の捕虜となるやもしれぬ。今すぐ策を実行に移すべきであり、羅尚は相談するに値しない」と話し合った。そして、広漢都尉曽元・牙門張顕・劉並らに密かに歩兵・騎兵3万を与え、李特の陣営を奇襲させた。羅尚はこれを聞くと、止むを得ず督護田佐を派遣し、曽元らを援護させた。李特は初めからこういう事態に陥ることを分かっていたので、武具を修繕し兵器を磨き、臨戦態勢で彼らを待ち構えていた。曽元等が流民の陣営に迫っても、李特は悠然として動かず、敵軍の半数が陣に侵入したところで伏兵に襲撃を命じた。これにより敵軍の大半を討ち果たし、田佐・曽元・張顕を戦死させた。そして彼らの首を羅尚・辛冉の下へ届った。羅尚は諸将へ「奴らはいずれ去るはずだったのだ。だが、広漢(太守の辛冉)の奴が独断で動き、敵の気勢を高めてしまった。こうなってしまった今、どうやって収拾をつけるというのだ!」と嘆いた。 ここにおいて、六郡の流民達は李特を首領に推した。部曲督李含・上邽県令任臧・始昌県令閻式・諫議大夫李攀・陳倉県令李武・陰平県令李遠・将兵都尉楊褒らは上書し、梁統が竇融を推戴した故事に従い、李特を行鎮北大将軍に推挙し、正式な手順に則り爵位・官位を授けた。李特は李流に行鎮東将軍、東督護と名乗らせ、東営の流民を指揮させた。又、李輔を驃騎将軍、李驤を驍騎将軍に任じ、広漢を守る辛冉を攻撃させてその軍勢を幾度も破った。羅尚は李苾と費遠を派遣して辛冉を救援させたが、彼らは李特を恐れて進軍しなかった。辛冉は連敗を続け、策も無く気力も尽き果てて江陽へ逃走した。李特は広漢に入城するとそこを拠点とし、李超を広漢郡太守に任じた。 その後、さらに兵を進めて成都へ向かい、羅尚を攻撃した。羅尚は閻式へ手紙を送り李特らを説得するよう求めたが、閻式は聞き入れなかった。羅尚は城郭にひきこもって固く守り、梁州・寧州に救援を求めた。 李特は長子の李始を武威将軍に、次子の李蕩を鎮軍将軍に、少子の李雄を前将軍に、李含を西夷校尉に任じた。また、李含の子の李国・李離・任回・李恭・上官晶・李攀・費佗らを将帥とし、任臧・上官惇・楊褒・楊珪・王達・麹歆ら爪牙とし、李遠・李博・夕斌・厳檉・上官琦・李濤・王懐らを僚属とし、閻式を謀主とし、何巨・趙粛を腹心とした。 羅尚は貪欲かつ残忍であったため民衆に嫌われていた。一方で、李特は法を緩めて簡略にし、貧民には施しを与えて労役を軽減し、賢者を礼遇し不遇の士を取り立て、軍規や政務は粛然としていた。そのため、蜀の民衆は「李特は良いが、羅尚は我らを殺す」と謡い、李特を支持した。 羅尚は李特に連戦連敗を喫し、都安から郫水まで水路に沿って七百里に渡る陣を築き李特と対峙した。また、梁州と南夷校尉に援軍を求めた。 302年、河間王司馬顒は李特討伐の為、督護衛博を梓潼へ進軍させ、朝廷は張徴を広漢郡太守に任じて徳陽へ進軍させた。さらに、南夷校尉李毅は兵5千を派遣して羅尚を救援させた。羅尚は督護張亀を繁城へ派遣した。李特は、李蕩・李雄を陽沔へ派遣して衛博を攻撃させた。そして連日争った結果、これを撃破して敵軍の大半を殺した。恐れた梓潼郡太守張演は城を捨てて逃走した。李特自身も張亀を攻撃し、これを大いに打ち破った。李蕩は衛博を追撃して漢徳に至ると、衛博は葭萌へ逃走した。李蕩は進軍を続けて巴西を攻撃すると、巴西郡丞毛植・五官襄珍は郡をもって李蕩に降伏した。李蕩は降した郡を慰撫した為、民衆は大いに安心した。李蕩がさらに軍を進めて葭萌を攻撃すると、衛博はさらに遠く逃れ、彼の軍はみな李蕩に降伏した。司馬顒は新たに許雄を梁州刺史に任じ、李特討伐に当たらせた。 この後、李特は大将軍・大都督・梁益二州諸軍事・益州牧を自称した。 8月、李特は軍を進めて張徴を攻撃した。張徴は険阻な地に拠って李特と連日対峙した。この時、李特は軍を半分に分けて李蕩に率いさせており、張徴は李特の陣営が手薄であると知り、山に沿って歩兵を派遣し攻撃した。李特は迎撃したが不利に陥り、地勢にも阻まれ為す術が無かった。羅準・任道らは撤退を進言したが、李特は李蕩の救援を信じておりにこれを認めなかった。李蕩は救援に駆け付けると死に物狂いで奮戦し、迎え撃って来た張徴の軍を壊滅させて李特を救った。張徴が退却しようとすると、李特はこれを見逃して涪へ還そうと思ったが、李蕩と司馬王辛は「張徴の軍は連戦して士卒は傷ついており、智勇ともに尽きております。これに乗じて捕虜とすべきです。もしこれを逃がせば、張徴は疲人を養い死者を回収し、他の軍と合流してしまうでしょう。そうなれば、容易に対処することは叶わなくなります」と進言した。李特はこれに従い、再び張徴を攻撃し、張徴は包囲を抜けて逃走を図った。李蕩は水陸の両面からこれを追撃し、張徴を殺害した。さらに、張徴の子である張存も生け捕りにしたが、張徴の遺体を彼に渡して帰らせてやった。 同時期、李特は寋碩を徳陽郡太守に任じると、寋碩は巴郡の墊江まで軍を進め、この地を占領した。 李特は李驤に命じ、李攀・任回・李恭と共に毗橋に駐軍させて羅尚への備えとした。羅尚は迎撃に出るも、李驤らはこれを破った。羅尚が再度数千人を派遣すると、李驤はまたこれを破って武器を奪い、敵の陣門を焼いた。李流は軍を進めて成都の北に軍を置いた。羅尚は配下の張興を派遣し、李驤に偽装投降して軍中の様子を観察させた。李驤の軍は2千人に満たないのを知ると、張興は宵闇に乗じて陣営から逃げ、このことを羅尚へ報告した。羅尚は精鋭1万人余りを李驤攻撃の為に派遣し、張興に案内をさせた。彼らは口に銜枚を含むと、李驤の陣営を夜襲した。これにより李攀は迎撃するも戦死し、李驤は将士とともに李流の陣営へ逃げた。李流は李驤の残兵を合わせると、進んできた羅尚軍を迎撃し、大いに破った。羅尚の兵で敗れて帰還できた者は10人のうち1、2人に過ぎなかった。梁州刺史許雄も軍を派遣して李特を攻撃したが、李特はこれを破った。 303年1月、李特は進撃して羅尚の水上軍を破ると、成都へ侵攻した。蜀郡太守徐倹は成都少城を挙げて降伏し、李特は李瑾を蜀郡太守に任じてこれを慰撫させた。李特は少城へ入城すると、年号を建初と定めて自立を宣言し、その勢力圏内に大赦を下した。城内で馬を徴発して軍馬にしたが、それ以外の略奪は行わなかった。羅尚は成都太城に籠城し、守りを固めた。李流が進んで江西に屯すると、羅尚は大いに恐れ、使者を派遣して講和を求めた。
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