流材問題の解決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 23:35 UTC 版)
名古屋電灯は1915年(大正4年)9月21日、木曽川全体の水力開発計画を取りまとめ、電気事業経営許可の変更を逓信省に申請した。しかし木曽川開発を実行に移すにあたって解決すべき問題として、木曽川の水運に対する補償問題が浮上した。 もともと木曽川は、上流域に広がる木曽御料林の木材輸送に古くから活用されていた(流材、「川狩り」と称す)。その手順を簡単に示すと以下のようになる。 御料林で伐採した木材を、木曽川最上流や王滝川などの木曽川支流へと落とし、1本ずつ木曽川本流へと流す。これを「小谷狩り」と称す。 木曽川本流でも引き続き木材を1本ずつ下流へと流す。これを中流の錦織(岐阜県)まで行う。木曽川本流と王滝川の合流点から錦織までの流材を「大川狩り」と称す。 錦織でいかだを組み木曽川へと流し、最終的に白鳥(名古屋市)や桑名へと運搬する。 御料林を管理する帝室林野管理局では、明治末期に中央本線が開通(1911年全通)したのを期に、木材輸送を順次鉄道輸送へと切り替えて輸送方法の近代化を図る計画を立てていた。それでも明治末期に許可されていた木曽川における水力発電の水利権はすべて流材に配慮しており、使用水量が流材に支障がない程度に制限されていた。 1907年から翌年にかけて長野県当局が名古屋電灯などに対して木曽川の水利権を許可した際、帝室林野管理局は県当局が相談なく行ったことを抗議し、1913年4月には電気事業を所管する逓信省との間で今後の水利権許可にあたっては事前に協議することを協定した。これらの経緯から、名古屋電灯が1915年10月に許可済みの木曽川水利権について使用水量の増加を申請すると、帝室林野管理局から補償を要求された。名古屋電灯の申請は、水利権を確保していた駒ヶ根水力・大桑水力・田立水力の3地点(1910年7月の計画見直しにより旧駒ヶ根水力が分割され3地点となっていた)につき、1.3倍から2倍の使用水量増加を求めるものであった。これに対して帝室林野管理局は、河水引用区域周辺の御料林と中央本線とを繋ぐ森林鉄道23マイル(約37キロメートル)と陸揚げ施設の無償提供を求めた。流材問題の解決なしでは使用水量増加が受理され得ないことから、建設費100万円と見込まれた森林鉄道の提供を最終的に名古屋電灯は受け入れた。御料林流材問題の解決により、1917年に使用水量増加が許可されるに至った。 なお帝室林野管理局との問題が解決し、次いで木曽電気製鉄が発足した後も地元自治体との間には補償問題が残った。これについては1921年(大正10年)2月に、漁業への配慮、官民双方の木材運搬施設(森林鉄道・林道、陸揚げ施設など)の整備、景観保護などを長野県が水利権の附帯条件として命令し直し、会社側からは1922年以降26年間にわたり毎年3万円ずつ計78万円を関係町村に寄付する、という条件で折り合いがつき、解決へと向かった。
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