流民を糾合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 13:36 UTC 版)
若くして書生となり、才学を有していたことから郡に仕えて主簿に任じられ、18歳のときには孝廉に挙げられた。当時、晋王朝(西晋)のときにあって永嘉の乱により中原一帯は北方の非漢民族の跋扈する地となっており、騒乱の中で民衆の虐殺や餓死が頻発していた。こうした中、多数の流民が発生し、彼らの多くは各地で砦を築き、自衛のために集団で武装していた(いわゆる塢壁)。蘇峻もまた数千家をまとめ上げて掖県において砦を築いており、当時こうした豪族が多数いた中でも最強と謳われていた。 彼は長史である徐瑋を諸々の集落に派遣し、檄を伝えて自らの徳を示すと共に、野に晒されていた遺骨を収めて埋葬した。これにより、遠近問わず多くの人々がその恩義に感じ入り、彼を盟主として推戴した。その後は主に海辺の山中で狩猟を行い、生計を立てていた。
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