流民を収容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:12 UTC 版)
317年、司州・冀州・并州・兗州の流民数万戸は遼西に居留していたが、次々に招引されたため、人民は生業を満足に出来なかった。当時、幽州と冀州の間では馬厳・馮䐗が遼西流民を従えて群盗をなしており、孔萇らはこれに攻撃を仕掛けたが、なかなか攻め落とせずにいた。石勒は張賓に良計を尋ねると、張賓は「馮䐗らはもともと、明公に恨みがあるわけではありません。また遼西の流民は皆、故郷への思慕の念を抱いております。今はこれを攻めずに軍を返して体勢を整えるべきです。そして、徳のある者に統治を任せ、仁政を敷いて威武を掲げれば、幽州・冀州の動揺は待たずして静まるでしょう。そうなれば、遼西の流民も時を待たずに帰順してくるでしょう」と答えた。石勒は「右侯の計の通りにしよう」と述べると、孔萇らを帰還させた上で、武遂県令李回を易北都護・振武将軍・高陽郡太守に任じた。馬厳の兵の多くはかつて李潜という人物の部下であり、李回はかつて李潜の府長史であったため、馬厳の兵は李回の威徳を慕っていた。その為、李回が着任したと聞くと、多くの兵が馬厳から離反して李回に帰順した。馬厳は部下が離反した事で恐れを抱き、幽州へと逃亡を図ったが、その途中に水に溺れて溺死した。馮䐗もまた兵を率いて石勒に降伏すると、李回は易京へと移った。数千の流民がこの年だけで石勒に帰順したので、石勒は大いに喜び、張賓の功績を賞して1千戸を加え、前将軍に昇進させた。だが、張賓はこれらを固辞して受けなかったという。
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