沈黙の時代
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やがてコンスタンティン・パッツによる権威主義体制(沈黙の時代(エストニア語版))が確立されると、1934年の教育改革によって、外国語教育は自治体および保護者の負担によってのみ設けられることとなった。これにより、1935年には初等教育全体の3分の1から外国語が排除された。また、エストニア人が少数派の自治体でもエストニア語での授業が保障されるようになった反面、自治体に少数民族が15人以下の場合には、原則としてエストニア語での授業が強制されるようになった。また、ドイツ化したエストニア人を「本来の姿に戻す」ため、親のいずれかがドイツ人でない限りドイツ語学校への入学は認められなくなった。 1934年には再び姓のエストニア語化を謳う法が成立し、これによって多くの人々が改姓した。1935年には地名・街路名のエストニア語表記が(歴史的な文脈を除いて)強制されるようになり、従来エストニア語名を持たなかった土地にも新たにエストニア語名が与えられた。
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沈黙の時代
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「コンスタンティン・パッツ」の記事における「沈黙の時代」の解説
戒厳令が宣告され、ヴァプス運動は大統領候補アンドレス・ラルカ(英語版)を含む400名の逮捕者を出して解散した。そしてライドネルが陸軍卿に任命された。1934年5月15日から翌日の間に、民主主義の存続を願うリーギコグはパッツの行動を追認した。大統領選は「ヴァプス運動の反政府的扇動のために国民が動揺している」ことを理由に戒厳令の解除まで延期された。 1934年8月、パッツは自身とライドネルに次ぐ重要人物として、アインバンドを内相に任命した。9月には宣伝省が設置され、10月には反体制派が政治活動の規制を批判したことをきっかけに、すべての国会機能は停止された。そして12月に検閲が開始された。 1935年1月、既存の諸政党を置き換えるために、政治結社「愛国連盟(英語版)」が結成された。パッツは、政治結社は国家を結束させるべきであり、それが分立していてはならないと考えていた。そのため、5月の自主クーデター以降全ての政治結社が禁止されていた。1934年5月、最初の戒厳令(6ヶ月)が宣告された。しかし9月、戒厳令は1年間延長された。こうした延長はその後5回にわたって行われることとなる。 パッツは、国家は各政党の思想によってではなく、権威ある機関によって指導されるべきだと考えていた。そのため、ファシスト党由来の国家コーポラティズムに基づく国家協力組合(英語版)が設置された。パッツはこの思想を1918年にも普及させようとしたが、極左の協力を得られなかったために失敗していた。パッツはこうした協力組合の設置の主導者であり、最初の2つは彼が政権を握っていた1924年から1931年までに設置され、1934年から1936年までに15の組合が追加で設置された。 1935年、ヴァプス運動によるクーデター計画「エストニアの戯曲」(エストニア国立劇場を中心に行動する計画であったことに由来する)が明るみに出た。全国で750人が逮捕され、ヴァプス運動は壊滅に追いやられた。陰謀の首謀者たちは20年の強制労働に処されたが、1937年に恩赦された。 一方で、トニッソンはパッツが新憲法をいつまでも施行しないことを批判していた。そのため、1935年7月にトニッソンは『ポスティメース』の編集委員を罷免された。1936年10月、4人の元国老であるヨハン・クック(英語版)、アンツ・ピープ、ティーマン、そしてトニッソンが連署して、パッツに自由権の保障を求める書状を認めた。 権威主義の時代において、敵対組織を持たない政府にとって改革を見送るのは容易なことだった。リーギコグで法案を通過させる代わりに、パッツは大統領令によって政治を行った。経済は成長し、社会基盤、興業、教育の開発が進んだ。「ケーレル・インパル」に改名した内相のアインバンドに代表されるように、人名の「エストニア化」も促進された。 1934年の憲法はあまりにも非民主的であるとして、パッツは国民投票と憲法制定会議による憲法改正を計画した。そもそも先述の協力組合が憲法制定会議設置の基礎となるべく作られていたこともあり、1936年の国民投票において憲法制定会議は76%の支持を得て可決された。同年の国会議員選挙は、ほとんどの選挙区において反政権派のボイコットを受けた。 1937年7月28日、憲法制定会議はパッツの青写真をもとにした、第3次となる新憲法を可決した。リーギコグは二院制へと改められ、大統領は議会によって選出されるとする、すなわち間接選挙制が導入された。1937年9月3日、新体制へ移行する120日の猶予期間が開始され、パッツは摂政大統領とされた。 1938年1月に新憲法が施行され、初の大統領選挙が始まった。この選挙には反パッツ派の人物も立候補できたが、彼らはメディアに露出する機会をほとんど与えられなかった。パッツの支持者たちが所属する「憲法施行のための国民戦線」は下院80議席のうち64議席を獲得した。また、大統領に選ばれれば、上院40議席のうち10議席を指名することができた。 議会は、地方政府の代表とともにパッツを大統領に指名した。他の候補者は検討されず、219票の賛成、19票の白票を得た。1938年4月24日、パッツはエストニア共和国初代大統領に就任し、ケーレル・インパルを5月9日付で首相に任命した。そして収監されていたほとんどの共産主義者、ヴァプス運動の関係者は恩赦に付された。いわゆる「沈黙の時代」が1938年の新憲法の施行を以て、あるいは1940年のソビエト軍による占領によって終わったのかについては、現在も意見が分かれている。
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