沈黙の時代とは? わかりやすく解説

沈黙の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 06:16 UTC 版)

エストニアの言語」の記事における「沈黙の時代」の解説

やがてコンスタンティン・パッツによる権威主義体制(沈黙の時代(エストニア語版))が確立されると、1934年教育改革によって、外国語教育自治体および保護者の負担によってのみ設けられることとなった。これにより、1935年には初等教育全体3分の1から外国語排除された。また、エストニア人少数派自治体でもエストニア語での授業保障されるようになった反面自治体少数民族15人以下の場合には、原則としてエストニア語での授業強制されるようになったまた、ドイツ化したエストニア人を「本来の姿に戻す」ため、親のいずれかドイツ人でない限りドイツ語学校への入学認められなくなった1934年には再び姓のエストニア語化を謳う法が成立し、これによって多く人々改姓した1935年には地名街路名エストニア語表記が(歴史的な文脈除いて強制されるようになり、従来エストニア語名を持たなかった土地にも新たにエストニア語名が与えられた。

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沈黙の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 14:50 UTC 版)

コンスタンティン・パッツ」の記事における「沈黙の時代」の解説

戒厳令宣告され、ヴァプス運動大統領候補アンドレス・ラルカ(英語版)を含む400名の逮捕者出して解散した。そしてライドネルが陸軍卿に任命された。1934年5月15日から翌日の間に、民主主義存続を願うリーギコグパッツ行動追認した。大統領選は「ヴァプス運動の反政府扇動のために国民動揺している」ことを理由戒厳令の解除まで延期された。 1934年8月パッツ自身とライドネルに次ぐ重要人物として、アインバンドを内相任命した9月には宣伝省設置され10月には反体制派政治活動規制批判したことをきっかけに、すべての国会機能停止された。そして12月検閲開始された。 1935年1月既存諸政党を置き換えるために、政治結社愛国連盟英語版)」が結成された。パッツは、政治結社国家結束させるべきであり、それが分立しててはならない考えていた。そのため、5月自主クーデター以降全ての政治結社禁止されていた。1934年5月最初戒厳令(6ヶ月)が宣告された。しかし9月戒厳令1年間延長された。こうした延長その後5回にわたって行われることとなる。 パッツは、国家各政党思想によってではなく権威ある機関によって指導されるべきだと考えていた。そのため、ファシスト党由来国家コーポラティズムに基づく国家協力組合英語版)が設置された。パッツはこの思想1918年にも普及させようとしたが、極左協力得られなかったために失敗していた。パッツはこうした協力組合設置主導者であり、最初2つは彼が政権握っていた1924年から1931年までに設置され1934年から1936年までに15組合追加設置された。 1935年、ヴァプス運動によるクーデター計画エストニア戯曲」(エストニア国劇場中心に行動する計画であったことに由来する)が明るみ出た全国750人が逮捕され、ヴァプス運動壊滅追いやられた陰謀の首謀者たちは20年強制労働処されたが、1937年恩赦された。 一方で、トニッソンはパッツ新憲法いつまで施行しないことを批判していた。そのため、1935年7月にトニッソンは『ポスティメース』の編集委員罷免された。1936年10月、4人の元国老であるヨハン・クック(英語版)、アンツ・ピープ、ティーマン、そしてトニッソンが連署して、パッツ自由権保障求め書状認めた権威主義時代において、敵対組織持たない政府にとって改革を見送るのは容易なことだった。リーギコグ法案通過させる代わりにパッツ大統領令によって政治行った経済成長し社会基盤興業教育開発進んだ。「ケーレル・インパル」に改名した内相のアインバンドに代表されるように、人名の「エストニア化」も促進された。 1934年憲法あまりにも民主的であるとして、パッツ国民投票憲法制定会議による憲法改正計画したそもそも先述協力組合憲法制定会議設置基礎となるべく作られていたこともあり、1936年国民投票において憲法制定会議76%の支持得て可決された。同年国会議員選挙は、ほとんどの選挙区において反政権派のボイコット受けた1937年7月28日憲法制定会議パッツ青写真をもとにした、第3次となる新憲法可決したリーギコグ二院制へと改められ大統領議会によって選出されるとする、すなわち間接選挙制導入された。1937年9月3日新体制へ移行する120日の猶予期間開始されパッツ摂政大統領とされた。 1938年1月新憲法施行され、初の大統領選挙始まった。この選挙には反パッツ派の人物立候補できたが、彼らはメディア露出する機会をほとんど与えられなかった。パッツ支持者たちが所属する憲法施行のための国民戦線」は下院80議席のうち64議席獲得したまた、大統領選ばれれば、上院40議席のうち10議席指名することができた。 議会は、地方政府の代表とともにパッツ大統領指名した他の候補者は検討されず、219票の賛成19票の白票得た1938年4月24日パッツエストニア共和国初代大統領就任し、ケーレル・インパルを5月9日付で首相に任命した。そして収監されていたほとんどの共産主義者、ヴァプス運動の関係者恩赦付された。いわゆる「沈黙の時代」が1938年新憲法施行を以て、あるいは1940年ソビエト軍による占領によって終わったのかについては、現在も意見分かれている。

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