橋種選択
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 00:59 UTC 版)
名古屋港横断道路の構想は、1964年5月の名古屋港管理組合が策定した港湾計画に端を発し、これが名古屋環状2号線に組み込まれて環状ルートの一部を形成するに至った。やがては産業道路として混雑をきたす名四国道のバイパスとして豊田市と四日市市間に第二名四国道が計画され、この内の名四東IC(現・名古屋南JCT) - 飛島IC間で環状2号と並行することとされ、両道路を併せて往復10車線の道路となった。のちに事業費を圧縮するために両道路は統合されて往復6車線の道路となった。さらに第二名四国道(伊勢湾岸道路)は国と自治体の思惑が合致したことによって第二東名、第二名神高速道路の一部に組み込まれた。 以上に見た経緯と連動して、名古屋港横断道路の構想は激しく変化した。1964年当初は「夢の大橋で結ぶ」と報道されたが、しばらく経過すると大橋あるいはトンネル方式とされた。そこへ往復10車線の構想が割り込むことで、橋梁、トンネルの区別なく膨大な構造で計画されるに至った。やがて海上横断道路は往復6車線に縮小され、ほぼ同時期に橋梁式に転換された。つまり、金城ふ頭と9号地(現・潮見ふ頭)間の横断形式は構想も含めて、橋梁→トンネル→橋梁の複雑な経過を辿ることになった。 橋梁に決定すると、西大橋は斜張橋(またはゲルバートラス橋)で、中央大橋と東大橋は吊り橋式で計画された。中央大橋を吊り橋としたのは、北航路(当時は内港航路と称した)の位置が当時は9号地寄りにあって、航路を跨ぐ必要から必然的に支間長が長大化することで斜張橋とするには当時の技術では難易度が高かったためである。また、東大橋は中央大橋に比べて支間長は短いが、中央大橋の地盤条件が悪いことから中央大橋の東側アンカレイジと東大橋の西側アンカレイジを共通とするために吊り橋を採用した。中央大橋吊り橋の当初案は往復10車線構想を反映して二層構造(ダブルデッキ型で上路4車線、下路6車線)とされ、トラス高12 m、主塔高さ141 mで予備設計されたが、その後の6車線化に対応してトラス高9 m、主塔高さ138 mに縮小された。橋長は1490 m、桁高さはこの時点の最もマストの高い船舶の入港実績から、航海練習船「日本丸」と「海王丸」の高さを基準として海面から48 mのクリアランスに2 mの余裕を加えた50 mで設計された。やがて東大橋の橋梁型式が斜張橋式に変更されたことで中央大橋単独のアンカレイジとなり、1978年には石油製品等の危険物を扱う9号地ルートの見直しが要請されたことでルートを北へずらして現状位置となった。 これによって桁下空間の変更とあいまって橋長1560 mに変更されることになり1979年3月に港湾計画に反映された。1978年度に船舶航行調査の結果に基づいて桁下空間の再検討を実施し、対象となる大型船舶を貨物船(19100D/W)として桁下空間を47 mに引き下げた。その後、吊り橋に必要なアンカレイジを支えるに必要な地盤がこの付近には無いことが問題化し、これによるクリープ(荷重が当初は一定に保たれていても時間と共にひずみが増す現象)発生が懸念されたことから、地盤が受ける負担の軽減を狙って支間長を縮小することになった。この問題は1974年における予備設計終了時点で既に判明しており、特に軟弱地盤の金城ふ頭におけるアンカレイジは常時大きな水平力が作用することから、基礎地盤が変形してアンカレイジが傾斜することが懸念されていた。また、支間長が長すぎることは建設費が莫大であることから有料道路としての採算性に問題があり、さらに9号地のインターチェンジが片方向アクセスとなることでサービスレベルダウンとなることから、橋の長さを縮小することは是非とも必要な対策であった。これらの問題を払拭するために、名古屋港管理組合は北航路位置の変更を決定し、B水域の概ね中間に移動することとした。これによって従来は航路をまたいで計画されていた東側の主塔が水域に設置することが可能となったことで、支間長は1560 mから1170 mへと縮小された。この変更を受けて9号地インター(現・名港潮見インターチェンジ)は両方向アクセス方式に変更された。橋梁規模縮小によって斜張橋式の採用が可能となったことで、吊り橋案と斜張橋案で検討した結果、工期、経済性に優れる斜張橋案が採用された。決定は1985年5月である。なお、中央径間縮小によってP-4橋脚が西へ移動してリノール油脂(現・日清オイリオグループ)の専用桟橋(15000重量トン級1バース)と重なることから、桟橋を南へずらす配置変更計画を1987年に策定している。 本橋は名古屋環状2号線の一部を構成するが、建設計画の面では名古屋環状2号線の中にあって大きく出遅れた。海上区間を橋梁かトンネルで跨ぐ点のみが論じられ、具体的な調査は1973年に入ってからであった。それも国の財政難と架橋反対を唱える船舶関係者への対応が原因であった。そして上述の如く1978年に橋梁案が正式決定されるとまたもや船舶航行に重大な障害が生じるのではないかという警戒論が出された。このため、名古屋港管理組合は船舶航行に一切の障害、危険を生じさせないために中部地方建設局に種々の申し入れを行い、最終計画案に反映させた。この中で中央大橋については最高潮位面から橋桁までの高さは47 mを確保、52番バース前面にターニングベースン(船が回頭する場所)を設置する、海中に防護施設を設けることなどが盛り込まれた。 当初は豊田市と四日市市を結ぶ伊勢湾岸道路の一部として計画された中央大橋も、1989年に伊勢湾岸道路を第二東名と第二名神のルートに含める基本計画が策定されると、それまで計画されていた道路規格を第二東名、第二名神に揃える必要が生じた。当初の道路規格は名二環と同じ第2種第1級(ただし設計速度80 km/h)、幅員32 mであったが、これを第1種第2級、設計速度100 km/hに引き上げ、幅員を37.5 mに拡大することになった。そのための都市計画決定は1991年8月に実施された。なお、中央大橋は斜張橋の設計が開始された後で規格変更されたため、斜張橋の当初案は塔高さ165 m、主桁幅はフェアリングを含めて30 mと、径間長は同じながら今より小ぶりであった。 1996年6月、1989年12月の下部工(基礎)の発注から6年半を要して上部工の主桁併合までこぎ着けた。併合の三週間後、主桁の連結式典「夢渡りフェステバル」が1996年7月13日と14日、当時世界第5位の規模を誇る斜張橋の誕生を祝うべく派手に開催された。愛知県警察音楽隊の演奏に始まり、愛知県知事と名古屋市長ら来賓によって溶接機のスイッチをオンにしてくす玉割りを挙行、続いて結婚行進曲にのって新郎新婦が登場し、ブリッジウェディングが行われた。また橋の広さを実感してもらう意図から橋上にテニスコートを仮設のうえテニススクールを開催し、コーチとして元プロテニス選手を招くという念の入れようであった。
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