東西の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 23:59 UTC 版)
詳細は「東西教会の分裂」を参照 8世紀から12世紀にかけて、フランク王国を中心とする西ヨーロッパの独自の発展に伴い、ローマ総主教(ローマ教皇)を首座とする西ヨーロッパ・北アフリカ管轄地方教会(のちのカトリック教会)は、その他の地方諸教会との交わりから徐々に離れるようになった。聖像破壊運動においてローマ教皇と東ローマ皇帝が対立したことが、この離間に拍車をかけた。西方教会管轄地にはもとより自治が許されていたが、800年、ローマ教皇レオ3世はフランク王カールを「西ローマ皇帝」として戴冠し(カール大帝)、東ローマ帝国からの完全な政治的独立を主張するにいたる。 東西交流の衰退は西方における教義の独自な発展を促し、両教会の教義上の差異は問題となるまでに著しく開いた(フィリオクェ問題参照)。1054年、コンスタンティノープル総主教(エキュメニカル総主教、全地総主教)ミハイル1世キルラリオスとロマ総主教座=ローマ教皇レオ9世は、ローマ教皇の権威・権限や、エキュメニカル総主教の称号が意味する権威についての理解の差が使節交換の際に顕現したことがきっかけになり、「相互破門」した。これを東西分裂、または大シスマなどと呼ぶ。 しかしこの時の分裂は決定的なものとは云い難く、東西教会の交流がこの相互破門を境にして唐突に断絶したと考えるのは誤りである。この事件の前後に西方教会でローマ教皇が永眠していることや、東方教会に対する破門が西方教会使節であったフンベルトの独断であった面が強かったことに鑑みると、そもそも破門が破門として有効であったのかどうかすらも疑わしい。正教会側は、「正教会は使節:フンベルト一行のみを破門した」と捉えてきた。 むしろ決定的分裂年代は、1204年の第四回十字軍に求められるべきである、とするのが現代の専門家の間の有力説であり、これまでの教科書的世界史理解の見直しが必要であろう。 その後、幾度か和解の試みがなされたが、完全な教義上の一致をみるには至っていない。むしろ和解のための対話は、かえって細部における両教会の差異の固定化につながっていった。このような対立の深まりは、両教会の政治上の緊張の深まりを反映している。そのような緊張の原因としては十字軍による東方世界の破壊と略奪が挙げられる。十字軍は占領地の小アジア=アナトリアやパレスチナ、(現レバノンを含む)シリアにおいて、暴力によるラテン典礼の押し付け、および教会機構の簒奪・支配を行なった。すでに第一次十字軍においても、十字軍による正教会信徒の殺害が行われ、エルサレム総主教が追放され、カトリックによる司教の任命が行われた。1204年の第四次十字軍は正教会の首座教会があるコンスタンティノープルを陥落させて略奪・虐殺行為を行い、ここでもラテン典礼の押し付けをおこなった。こうしたローマ・カトリック勢力による暴力は、正教会信徒の間にローマ・カトリックに対する根強い不信感を植え付けることとなった。 また、1453年のコンスタンティノープルの陥落に際しては、フェラーラ・フィレンツェ会議で援軍の派遣を決議しておきながら、(西欧内で諸国の内紛があったことも影響したとはいえ)事実上見殺しにした。さらに、ロシアなど東欧一帯で、この公会議でカトリックの教義を受け入れることを主張した者が、破門されてカトリックに走り、正教会の勢力圏内であったウクライナなどに教皇庁の支配を受けるユニア教会(東方典礼カトリック教会)がおかれた。これは当時の正教会側からみれば、分断を固定化するとともに、その土地での正教会の管轄権を否定する行為であり、「ローマ・カトリック教会は対話や交渉に値しない」という印象を与えることとなった。 現在もロシア正教会はローマ教皇庁との対話の条件として、ユニア教会がロシア教会側に復帰することを求めている。16世紀以降にカトリックが対抗宗教改革の一環として、ブレスト合同にみられるように、東欧や東地中海地域での東方典礼カトリック教会の設立を進めたこともさらに両教会の角逐を深めた。なおバルト海沿岸ではこれにルター派教会およびカルヴァン派の宣教も加わり、東西教会の緊張は複雑な様相をみせた。 こうした長年の政治的緊張は、教義上の対立以上に、東西の教会一致に決定的な痛手と否定的作用をもたらした。2003年の教皇ヨハネ・パウロ2世のギリシャ訪問の際、第四回十字軍の略奪及びコンスタンティノープル見殺しについての謝罪があったが、東西教会間の問題はなお山積している。なお相互破門状態は1965年12月に取り消され、相互理解と和解に向かって双方が歩み始める出発点となった(ただし先述の通り「相互破門」はそもそも破門として有効であったのかどうか疑わしい程度のものであり、解決が比較的容易な問題であったとも言える)。 しかし、ヨハネ・パウロ2世より教皇座を引き継いだ保守派のベネディクト16世は、就任早々にローマ教会の主導権を主張したために、正教側の反発を受けている。教皇首位説はそれぞれが自立している正教会の諸教会には到底受け入れられるものではなく、東西教会の再統一にはまだまだ克服すべき障壁が多いのが現状である。他方、2006年11月30日、ローマ教皇ベネディクト16世は、コンスタンティノープル総主教庁を公式訪問し、聖体礼儀に参祷した。このとき、「我が兄弟」と相互に呼び合った。ただしこの聖体礼儀においてはベネディクト16世は司祷も領聖もしておらず、至聖所にも入っていない。
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