東西の川の工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:53 UTC 版)
前述のように開港当初居留地の東端には(旧)生田川が、西端には鯉川が流れていたが、(旧)生田川は堤防が低く、しばしば居留地内に水害をもたらし、鯉川は交通の妨げになると外国人からの評判が悪かった。 明治政府は生田川について、1871年4月29日(明治4年3月10日)から同年7月26日(明治4年6月9日)にかけて川の流れを東へ移す付け替え工事を行い、上流にある布引の滝からまっすぐ小野浜まで南下する新たな生田川(新生田川)が作られた。旧生田川の河川敷は埋め立てられ、道路(フラワーロード)や日本人と外国人が共同利用するグラウンド(内外人公園。後の東遊園地。詳細については後述)が造成された。右岸の堤防の一部はそのまま小山のように残され、異人山と呼ばれるようになった。異人山があった場所には後に神戸市役所が建てられた。埋立地の一部には工事を請け負った加納宗七の名に因んで「加納町」という地名が付けられた。なお、この工事には居留地の設計に当たったジョン・ウィリアム・ハートも関与した。 鯉川については、居留地側から兵庫県および明治政府に対し、工事費用の半分を負担するから川に蓋をしてほしいという要望が出され、1874年(明治7年)10月から1875年(明治8年)1月にかけて工事が行われた。その後1909年(明治42年)になって鯉川はコンクリートで覆われた完全な暗渠となった。さらにその後暗渠の上に道路(鯉川筋)が敷設された。
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