東西の文明をつなぐ貿易路の形成
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「ブルネイの歴史」の記事における「東西の文明をつなぐ貿易路の形成」の解説
沿岸部の河川域を中心とした小規模な港が他の文明世界といつごろから交流しはじめたのか、最初期の記録、西側から見た記録は、西暦60年から70年ごろに記された『エリュトラー海案内記』に見られる。エリュトラー海とは、ギリシャ人が紅海、ペルシャ湾、インド洋を併せた海域を呼ぶ用語である。エリュトラー海案内記には、ローマ人がコショウの産地として非常な関心を抱いていた南インドを中心として描かれている。アレキサンドリア・紅海・ペルシャ湾・インドという航路は紀元前1世紀から利用されていた。インド南部から左に陸地を見て進んで行くと「ガンゲース」(ガンジス川)に至り、さらに進むとクリュセー(マレー半島)と呼ばれる島が、さらに北に進むと、ティーナ(シナ)に到達するとある。従って、ギリシャ側からは、インドと中国を結ぶ航路が認識されていた。 中国側からは、後漢の班固、班昭によって記された前漢について記した『漢書』の「地理志」に中国とインドの貿易について記述がある。貿易品目にはインド、中国のいずれも産出しない「犀」などが見られることから、紀元前には、東南アジア諸国が貿易に参加していたことが分かる。 当時の貿易路は、両端ではローマと漢を結んでいたが両者の直接的な貿易交渉はほとんどなかった。貿易の中心点はインドであり、インドの産物を西のローマと東の漢が輸入し、代わりに金を輸出していた。
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