東西の文明をつなぐ貿易路の形成とは? わかりやすく解説

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東西の文明をつなぐ貿易路の形成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 05:09 UTC 版)

ブルネイの歴史」の記事における「東西の文明をつなぐ貿易路の形成」の解説

沿岸部河川域を中心とした小規模な港が他の文明世界いつごろから交流しはじめたのか、最初期記録西側から見た記録は、西暦60年から70年ごろに記された『エリュトラー海案内記』に見られる。エリュトラー海とは、ギリシャ人紅海ペルシャ湾インド洋併せ海域を呼ぶ用語である。エリュトラー海案内記には、ローマ人コショウ産地として非常な関心抱いていた南インド中心として描かれている。アレキサンドリア紅海ペルシャ湾インドという航路紀元前1世紀から利用されていた。インド南部から左に陸地見て進んで行くと「ガンゲース」(ガンジス川)に至り、さらに進むとクリュセー(マレー半島)と呼ばれる島が、さらに北に進むと、ティーナシナ)に到達するとある。従って、ギリシャ側からは、インド中国を結ぶ航路認識されていた。 中国側からは、後漢班固班昭によって記され前漢について記した『漢書』の「地理志」に中国インド貿易について記述がある。貿易品目にはインド中国いずれも産出しない「犀」などが見られることから、紀元前には、東南アジア諸国貿易参加していたことが分かる当時貿易路は、両端ではローマと漢を結んでいたが両者直接的な貿易交渉はほとんどなかった。貿易の中心点はインドであり、インド産物を西のローマと東の漢が輸入し代わりに金を輸出していた。

※この「東西の文明をつなぐ貿易路の形成」の解説は、「ブルネイの歴史」の解説の一部です。
「東西の文明をつなぐ貿易路の形成」を含む「ブルネイの歴史」の記事については、「ブルネイの歴史」の概要を参照ください。

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