東西の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/09 02:08 UTC 版)
「ヒップホップ音楽の歴史」の記事における「東西の対立」の解説
ニューヨークのシーンが再浮上したことは、東海岸と西海岸、そしてそれぞれの主要なレーベル同士の対立を生み出した。グループの対立関係は、後に個人的な対立関係へと変わり、ヒップホップの歴史に残る惨事へと発展した。 ノトーリアス・B.I.G.は、「Who Shot Ya」を1995年後半にリリース。トゥパックはこの曲を、自身に対する銃撃未遂はバッド・ボーイが差し向けたものと解釈した。これに対してトゥパックは、翌1996年初め、悪名高いシングル「Hit 'Em Up」をリリースする。この曲は、彼がビギーの妻、フェイス・エヴァンスと性的関係を持ったことを示唆し、ビギーとパフ・ダディを脅迫する内容であった。このスキャンダラスな内容は、対立をあおってしまった。ビギーは決して直接に言及しなかったが、当時のメディアはラップの東西戦争と報道した。1996年3月にマイアミで行われたソウル・トレイン・アワードの授賞式では、両レーベルの取り巻きが、銃をぶら下げて対峙するという事態を招いた。 そして1996年9月7日、トゥーパック・シャクールはラスベガスで数回撃たれ、数日後の9月13日の金曜日に死亡した。1997年3月9日には、ノトーリアス・B.I.G.がロサンゼルスで射殺された。両方の事件は未解決で、多くの噂が広まった。 トゥーパックの死後、多くの目立ったアーティストはデス・ロウを去り、シュグ・ナイトは刑務所に入り、西海岸ラップの勢いはやや弱まった。かつての西海岸の象徴だったスヌープ・ドッグは南部のレーベル(ノー・リミット)と契約した。ドクター・ドレーは自身のレーベル、アフターマス・エンターテインメントを創設し、東海岸出身のナズやファームといったアーティストとの仕事を始めた。ドレーはMTVのビデオアウォーズの授賞式で、「ギャングスタ・ラップは死んだ」と発言した。 パフ・ダディの成功によって、ヒップホップのサウンドはストリート賛歌から、より踊りやすいクラブ向けのパーティ・ラップへ移行することを主張していた。これは他のラッパーにとって、売り上げの増加へと結びついた。南部のマスター・P率いるノー・リミットレーベルの躍進によって、バッド・ボーイの支配的な人気も多少は落ちた。しかし彼自身は、P・ディディ、更にショーン・コムズと改名し、しばらくはシーンの中心に残った。
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