東西の失地の回復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/14 09:06 UTC 版)
「シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ」の記事における「東西の失地の回復」の解説
イルトゥトゥミシュが西北部の安定に忙殺されている間に、ベンガルとビハールではギヤースッディーン・イワズ・キルジーという人物が勢力を築いており、彼はベンガルとビハールの小国から貢租を取り立てていた。1225年にイルトゥトゥミシュはベンガルに親征し、一時はイワズを従属させるが、イルトゥトゥミシュが帰国した後にイワズは再び独立する。1226年にアワドの長官を務めていたイルトゥトゥミシュの長子ナースィルッディーン・マフムードがベンガルに派遣され、マフムードはイワズを破り捕殺した。イワズの死後にベンガル、ビハールはデリーの宗主権下に入るが依然として不安定な状況にあり、1230年にイルトゥトゥミシュによる第二次ベンガル親征が行われた。 そして、ラージプート国家に対しても再び宗主権を認めさせるべく軍を進めた。1226年にはチャウハーン朝の王族がランタンボールとジャーロール(英語版)に建てた後継国家に勝利し、1233年にはマールワーを支配するパラマーラ朝の都市ウッジャインとヴィディシャーを制圧する。メーワールのグヒラ朝にも圧力を加え、王都ナーグダーを占領した。しかし、グジャラートを支配するヴァーゲーラー朝(12世紀末に滅亡した後期チャールキヤ朝の後継国家の一つ)の援軍にメーワール征服を阻まれ、報復としてヴァーゲーラー朝を攻撃するが、逆に撃退された。
※この「東西の失地の回復」の解説は、「シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ」の解説の一部です。
「東西の失地の回復」を含む「シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ」の記事については、「シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ」の概要を参照ください。
- 東西の失地の回復のページへのリンク