東西の和解
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「マリオン・G・デーンホフ」の記事における「東西の和解」の解説
特権階級に生まれ育ったことで祖国や人間の尊厳・自由の感覚が育まれたという彼女がジャーナリズムの道を選んだのは、こうした基本的な権利を奪われた南アフリカ、中東、東欧の人々について書きたいという気持ちからであり、同時にまた、「(恥ずべきナチス・ドイツではなく)まともなドイツを築くこと、良質な新聞を作ること」を個人的な信条としていた彼女は、『ディー・ツァイト』紙上で「ドイツが国際的な信頼を回復するためには、国家および他国との関係を根本的に構築し直さなければならない」と訴え続けた。 彼女は政党から独立した立場を貫いたが、思想的にはドイツ社会民主党に近かった。コンラート・アデナウアー首相が1955年に提唱したハルシュタイン原則に示されるように、東側諸国との和解など到底考えられなかった時代に、彼女はこれを断固として主張した人物、特に1952年3月にアデナウアーがスターリンからの「ドイツを再統一し、中立化する」との提案を一蹴したとき、この判断は間違っていると主張した数少ない人物の一人であった。また、1959年に掲載された「民衆をもてあそぶな」と題する記事では、政権延命のためにルートヴィヒ・エアハルトをほとんど実権のない連邦大統領に据えようとしたアデナウアーを批判し、辞任を求めた。東西ドイツの和解を熱心に支持していたデーンホフにとって、アデナウアーは「反プロイセン意識が強く」、「ベルリンが再びドイツの首都になることなど決してない」と考える「権威主義者」であった。 1969年に首相に就任したヴィリー・ブラントが東側諸国との関係正常化を目指した東方外交を打ち出したとき、デーンホフはこれを全面的に支持した。彼女は『ディー・ツァイト』が東側諸国について大々的に取り上げることを約束し、自らポーランド問題を専門に調査・執筆した。デーンホフはオーデル・ナイセ線(1945年のポツダム会談により暫定的に設定されたドイツ・ポーランドの国境線)は廃止すべきであると主張し続け、1970年に、ブラント首相から、オーデル・ナイセ線をドイツ・ポーランドの国境として確認するワルシャワ条約調印式への参加を求められたが断った。「二度と戦争を起こさないためにはやむを得ないこと」と考える一方で、まだこの現実を受け入れることができなかったからである。ブラントはこの代わりに、彼女の求めに応じて『ディー・ツァイト』に「プロイセンの墓に捧げる十字架」と題する記事を発表した。 1971年、冷戦期の東西和解に関する著作物によりドイツ書籍協会平和賞を受けた。ジャーナリストのヘラ・ピック(英語版)は、「ドイツはマリオン・デーンホフから計り知れない恩恵を受けている。彼女はドイツの心をとらえ、報道界において女性が高い地位を占めるのがまだ極めてまれであった時代にガラスの天井を打ち破った女性であり、それだけに一層彼女の業績は輝かしい」と評している。1972年に経営責任者に就任。新編集長には『ドイツの将来 ― その文化と政治経済』の共著者テオ・ゾンマー(ドイツ語版)が就任した。翌73年には元連邦首相ヘルムート・シュミットが共同経営責任者として参加した。デーンホフは2002年に92歳で亡くなるまで経営責任者を務めた。 彼女はほぼ50年にわたって『ディー・ツァイト』に記事を発表し続け、少なくとも週に一度は非常に詳しい情報を提供する長い記事を書き、ほとんど働き詰めであった。一方で、著書を発表し、取材に奔走し、戦後の主要な立役者と会談し、また、社会活動、環境保全活動にも取り組んでいた。
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