東京大学時代
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1976年頃 寮食堂建物の北側部分が劇場として改装され、「駒場小劇場」と命名される。 1991年10月 駒場寮廃寮を計画に含む三鷹国際学生宿舎構想が教養学部教授会、東京大学評議会に承認される。 1993年6月 寮食堂で集団食中毒が発生し営業停止処分を受ける。寮食堂を運営する東大生協は、施設の老朽化・採算の悪化などを理由に営業再開を断念し、翌年正式に廃止された。 1995年4月 大学側が新入生の入寮者募集を停止。学生側はこれを認めず、新入寮生募集を継続。 1996年4月 大学側が「廃寮」宣告。 これ以降大学と、大学の言う「違法に占拠する学生」との対立が激化。大学は電力供給を停止し、数度にわたって警備員を大量動員して寮生を追い出そうとし、解体工事を強行した。 1997年10月 東京大学(国)が寮内に残っている学生ら44人と寮自治会などを相手取って、明け渡しを求める訴えを東京地裁に起こした。 2000年3月28日 大学(国)側の請求を認め、寮生らに明け渡しを命じる地裁判決。 2001年8月22日 強制執行によって学生が退去させられる。
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東京大学時代
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東京大学機械情報工学科に進学。1997年に学部を、1999年に大学院修士課程を修了。中村仁彦のもとで、パラレルメカニズムの動解析と制御に従事。引き続き中村のもとで博士課程に進学し、2000年からは日本学術振興会特別研究員。ヒューマンフィギュアやヒューマノイドロボットの順動力学計算法の研究に取り組む。 山根はセガとの共同研究として、SRインバースを適用した運動学計算(キネマティクス計算)のみによるヒューマンフィギュアの計算手法にも取り組む。これはアニマニウムに実装された。また、モーションキャプチャーで取得したデータを、ヒューマノイドにとって動力学的に整合性のあるモーションに変換するダイナミクス・フィルタ(Dynamics Filter)にも取り組んだ。 2002年3月に博士課程を修了し、博士(工学)の学位を取得。2002年度には1年間カーネギーメロン大学で客員研究員を務め、2003年4月から東京大学大学院情報理工学系研究科知能機械情報工学専攻助手に着任する(後、講師、准教授)。21世紀COEプロジェクトにも参画し、力学的情報処理や知能の研究にも関与した。2005年の愛・地球博には中村研究室からアニマトロニックヒューマノイドロボット・プロジェクトを出展しており、山根もモーションキャプチャーや逆運動学計算のプログラミングに携わった。 山根はヒューマノイドの動力学計算法を、筋骨格系のシミュレーション技術に拡張し、一連の研究は特許も取得。これには大武美保子も一時期参画した。山根は面状メッシュマーカーのモーションキャプチャーの開発にも取り組み、株式会社ナックイメージテクノロジーから筋骨格モデル動作解析ソフトウェア「nMotion musculous」として製品化された。
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東京大学時代
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1874年(明治7年)、育英義塾(後の育英高校)に入塾し洋学、英語、ドイツ語を学ぶ。また、官立外国語学校(後の東京外国語大学)に入学。1875年(明治8年)、官立外国語学校卒業後、官立東京開成学校(後の東京大学)に進学。1877年(明治10年)に東京大学に入学した。東京大学文学部において政治学を主要科目として専攻し理財学を兼修した。東京大学時代には中村敬宇(中村正直)や三島毅(三島中洲)、島田重禮(島田篁村)等に漢文学を学び、和学では横山由清、小中村清矩、黒川真頼等の人々に師事した。印度哲学は原担山、吉谷覚寿等につき、渋沢栄一の経済学の講義を受け、またアーネスト・フェノロサの薫陶を受けその指導の下、政治学、理財学(経済学)、哲学、道義学(倫理学)、審美学を学ぶ。フェノロサが教えていたハーバート・スペンサーのスペンサー哲学にも感銘を受ける。また1878年(明治11年)には漢学塾二松學舍(後の二松學舍大学)の塾生となる。 嘉納の東京大学文学部の同級生には、末岡精一(東京大学国法学教授)、坪井九馬三(文科大学長)、都築馨六(枢密院顧問官)、辰巳小次郎(諸方の私立学校教師)、田中稲城(和漢学、帝国図書館長)らがいた。嘉納を後に支えるこうした人物たちとの人脈とそれを支える資本は東京大学で身につけることとなる。また嘉納と同年に東京大学医学部を卒業している人物に森鴎外がおり、その小説作品『雁 (小説)』(1911年9月–1913年連載、1915年刊行)は鴎外の卒業間際の明治13年、14年頃を背景・モデルに執筆したとされるが、その中の登場人物「石原」は東大時代の嘉納治五郎をモデルにしているという説がある。 1881年(明治14年)に東京大学文学部を卒業し、続けて1年間哲学選科生として大学に残った後(翌年7月卒業)、1882年(明治15年)1月に学習院政治経済科講師(立花種恭院長)となる。生徒は嘉納治五郎より年上で子爵山口弘達、子爵大久保忠順、子爵佐竹義理、子爵牧野貞寧などであった。
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