佐野と近代公共図書館の確立
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「佐野友三郎」の記事における「佐野と近代公共図書館の確立」の解説
日本に帰国した翌・明治33年(1900年)、東京大学時代に同じボート部にいた秋田県知事の武田千代三郎が佐野に新設の秋田県立秋田図書館の館長の就任を要請しこれを受諾する。図書館に関しては十分な知識を持っていなかった佐野であったが、すぐに帝国図書館館長の田中稲城の指導を仰ぎながら、無料開館・月曜日休館などの原則を定めた規則を作成するなどした。 明治35年(1902年)、佐野は「巡回文庫」構想を発表する(『秋田県教育会雑誌』「米国巡回文庫起源及び発達」)。これはアメリカのメルヴィル・デューイが始めた巡回文庫の仕組みを取り入れたものであった。後に佐野は直接デューイと手紙を遣り取りするなど、彼の図書館思想の影響が大きいとされている。散逸しかけていた佐藤信淵の著作の蒐集事業や各地に郡立図書館を設置する事にも力を注いだ。ところが、「巡回文庫」の準備中に武田が山口県知事に転任、佐野にも同行して新設の山口県立山口図書館館長に就任するように求められた。佐野は武田の要望に抗いがたくこれを受諾、明治36年(1903年)に山口県立山口図書館館長として赴任した。 山口においても、「巡回文庫」を導入した他、夜間開館の実施や日本最初の児童図書館にあたる「児童閲覧室」を開設した。 明治40年(1907年)には、公開開架を導入して通俗書を中心とした3,000冊の館内での自由な閲覧そして館外貸出を許可し、同42年(1909年)には、デューイ十進分類法と日本既存の「八門分類表」を参考にした新しい図書分類法である「十門分類表」(山口県立図書館分類表)を作成するなどした。
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