佐野の帝大中退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:07 UTC 版)
一方、佐野文夫は父のいる山口県に帰って秋吉台の本間俊平の感化院で大理石を採掘する謹慎生活を送った後、一高を遅れて卒業、東京帝国大学の哲学科に進学しながら高校時代から続けていたレーニンやフォイエルバッハ、ローザ・ルクセンブルクなどの翻訳を手がけた。しかし、大学に入ってからも盗癖は治らず、哲学科の研究室から本を持ち出したのが発覚し、1914年(大正3年)に東京帝大を中退した。 佐野は、成瀬正一から借りた腕時計や久米正雄から借りた金も踏み倒すなどしていたが、佐野は非凡な才能を持っていたため第三次『新思潮』の同人仲間は大目に見ていた。盗みや踏み倒しで得た金で佐野は、倉田百三と待合に行って遊んでいた。この倉田については、彼が妹・艶子を佐野に紹介した一件が、そもそもの事件の発端の元凶と捉えていた菊池にとっては不愉快な存在であった。その後、佐野は山口県秋吉台の感化院に再び戻り、昼は青空の下で大理石を磨き、夜は聖書を読んで神に祈りを捧げる懺悔の日々を約2年間送った。 なお、長崎は菊池が京都帝国大学に在籍していた1914年(大正3年)に面会した際、事件の折の行動に赦しを求めたところ、菊池は「今はもうそんなことは思っていない」と返答したという。芥川龍之介や久米正雄といった刺激し合う文学の友がいない京都大学では、孤独を紛らわすため研究室や図書館に入り浸り、東京にいられた時よりも「二倍か三倍位多くの本をよむことが出来たと思ふ」とのちに菊池は回想している。多くの読書で菊池は、シングやダンセイニ、グレゴリーなどのアイルランド戯曲に傾倒した。 この時期、佐野が再び盗みの罪を犯したことを知ったであろう菊池は、自分の犠牲的行為が無に帰したことをはっきりと自覚した。 彼は、一時の昂奮と陶酔との為に、青木の為に払つた犠牲の、余りに大きかつたのを後悔し始めた。彼は、よく芝居で見た身代りと云ふ事を、考へ合はせた。一時の感激で、主君の為に命を捨てる。夫(それ)は其場限りの事だ、感激の為に理性が、盲目にされて居る其場限りの事だ。雄吉自身の場合の如く、その感激が冷めて居るのに、まだその感激の為にやつた一時の出来心の、恐ろしい結果を、背負はされて居るのは堪らない事だと思つた。 — 菊池寛「青木の出京」 ロマンチシストの菊池は幻滅的な現実を忘れるため、井原西鶴や歌舞伎、オスカー・ワイルド、谷崎潤一郎などの耽美的・享楽的芸術世界を心のよりどころとした。また、京都の芸術を復興させるため、その計画を『中外日報』で呼びかけるが、結局は頓挫し京都にも幻滅していった。やがて菊池は、ワイルドと平行し愛読していたバーナード・ショーの現実主義的思想に実感を伴って共感するようになり、生活信条やいくつかの文学作品にも反映されることになる。 ショオは幻覚を蛇蝎視して居る、人類は生の事実を逃避せん為に凡ての緩和剤を用ゐて幻覚を追ふにのみいそがはしい、人類が幻覚を追ふ力は最も大なる力であるがこの幻覚を破つて生の事実に面と向つてこそ初めて切実なる事理は得られるのであると。(中略)ショオ劇の人物も人生の迷路に立ち或は因習の信条に迷はされながらも遂に自己が浅薄なるローマンスの殿堂に参拝して居たのを感悟し勇ましく光明に向つて突進して行くのである。 — 菊池寛「青顔朱髯のショオ」
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