佐野のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:07 UTC 版)
佐野文夫は、満鉄の調査部に就職しそこを辞めた後、再び父の縁故で外務省情報局に勤めた。その時期に小牧近江と知り合い影響された佐野は、社会主義思想に興味を持ち、次第に過激な共産主義思想にのめり込んでいくようになる。一方、息子の行く末を案じていた父親の佐野友三郎は、神経衰弱ぎみな日々を送っていたが、病気を苦に1920年(大正9年)5月に、小刀で喉を突いて死のうとしたが死にきれず、縁側の梁に細紐を吊して縊死自殺をした。 その後、佐野は1922年(大正11年)7月に非合法日本共産党創立に参加。1925年(大正14年)にコミンテルン極東ビューロー上海会議に出席し、翌年には日本共産党の中央委員会議長にも選任され、1927年(昭和2年)にはソ連を訪問し討議に参加するなど活躍した。その頃の佐野は笹塚に居住していた。その後福本イズムをめぐって中央委員を罷免され、1928年(昭和3年)には「三・一五事件」の弾圧で検挙されて転向し、保釈後の1931年(昭和6年)に肺結核で亡くなった。
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