明治訳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 09:45 UTC 版)
詳細は「明治元訳聖書」を参照 ヘボンらの翻訳作業は、1872年に開催された日本在留ミッションの第一回在日宣教師会議において決議された新約聖書の共同翻訳事業に引き継がれることになる。いわゆる翻訳委員社中の結成である。この会議の参加団体はアメリカ合衆国長老教会(ヘボン)、アメリカ改革派教会(ブラウン)、アメリカン・ボード(グリーン)の3団体に過ぎなかった(括弧内は委員に選出された者)。参加を呼びかけられていた英国聖公会、米国聖公会、ロシア正教会は欠席したが、翻訳委員会の第1回会合(1874年)には、上記3委員のほか、J・パイパー(英国聖公会宣教協会)、N・ブラウン(バプテスト教会)、R・S・マクレイ(メソジスト監督教会)、W・S・ライト(イギリス海外福音伝道会)、H・ワデル(スコットランド一致長老教会)、クインビー(H. J.Quinby, 米国聖公会)、G・コクラン(カナダ・メソジスト教会)など各派から出席者があり、前出のゴーブルも参加していた。日本人では奥野昌綱、松山高吉、高橋五郎らが協力した。 翻訳は新約聖書から始まり、底本はテクストゥス・レセプトゥスのギリシャ語本文で、あわせて欽定訳の英文も参照するものと決められていた。日本人協力者はギリシャ語本文を読めなかったため、ブリッジマン、カルバートソンの漢訳聖書『旧新約全書』(1863年 - 1864年)に依拠したものと考えられている。1874年から作業が開始され、完成した訳稿はすぐさま分冊として1875年ないし76年から順次出版されて1880年に全17冊が完結した。その完結と同じ1880年には奥野などが参加した再検討を踏まえて訂正した上で合冊し、『新約全書』が刊行された。さらに同じ年にはパイパー作成による引照付きの聖書も刊行され、ほかにひらがな版、真片仮名版(漢字・カタカナ表記)、老人用の四号活字版などが相次いで刊行された。出版は米国聖書会社、大英国聖書会社、北英国聖書会社が引き受け、その総発行部数は1881年の1年間だけで10万3千部に達したという。 旧約聖書については断片的な翻訳が存在していたが、1873年頃からディビッド・タムソン (David Thompson, PN) が創世記の翻訳作業に入っており、1876年にはタムソンに3人の宣教師が加わって東京聖書翻訳委員会を結成した。1878年に12名の宣教教会代表者からなる聖書常置委員会(第2次委員会)に改組されたが、これは1882年に再改組され、翻訳の中心は最終的にヘボン、ファイソン、フルベッキとなった。こうした動きに対し、日本人たちも聖書翻訳に主体的に関わろうと委員会を組織し、常置委員会とも交渉したものの、経済的理由などからまもなく解散し、日本側委員に名を連ねていた松山高吉、植村正久、井深梶之助がヘボンらの翻訳に協力するにとどまった。旧約の翻訳は、1882年から順次分冊を発行して1887年に完成した。新約・旧約合わせてこの翻訳作業に関わり続けたのはヘボン一人であり、個人訳時代から数えれば20数年の歳月をかけた事業である。 これらの聖書は「委員訳」、「委員会訳」などの通称のほか、現在では「明治訳」あるいは(後述する大正改訳の元になったという意味で)「元訳」とも呼ばれる。また、明治元訳という呼び方もある。訳者たちは親鸞伝と福沢諭吉翻訳の児童向け読み物、あるいは貝原益軒の文章を日本語のモデルにしたと言われているが、文体については誰でも分るやさしいものにするという考え方と、格調の高い漢文風にしようという二つの方法論が常に対立していた。後者は補佐として加わった日本人達の意見であり、前者は主にブラウンらの宣教師側の意見だった。その結果として独自の和漢混交体での翻訳となった訳だが、漢文に親しんでいた教養ある信徒には珍妙な日本語として軽蔑されたとも言われている。実際、米国聖書協会はそうした人々に向けて、ブリッジマン、カルバートソンの漢訳聖書の訓点本(訓点者は松山高吉とされる)を1878年から1888年にかけて何度も出版した。文体に対する否定的な評価だけでなく、誤訳の多さも指摘された。その一方で、上田敏は「明治の大翻訳」と褒め称え、特に旧約聖書の詩篇については「筆路頗る雅健なり」と絶賛したほどで、日本文学への影響も大きかった。 視(み)よはらから相睦(あいむつ)みてともにをるは、いかに善くいかに楽しきかな 首(かうべ)にそゝがれたる貴(たふと)きあぶら鬚(ひげ)にながれ、アロンの鬚にながれ、その衣のすそにまで流れしたゝるがごとく またヘルモンの露くだりてシオンの山にながるゝがごとし、そはヱホバかしこに福祉(さいはひ)をくだし、窮(かぎり)なき生命(いのち)をさへあたへたまへり — 詩篇第百三十三篇 ダビデがよめる京(みやこ)まうでの歌、明治訳 明治訳の影響は日本文学にとどまらず、朝鮮語訳の新約・旧約聖書が最初に揃った完訳『韓国語聖書』(1911年)の翻訳および『韓国改訂訳聖書』(1938年)の改定作業にも影響を与えることになる。 なお、バプテスト派のネイサン・ブラウンは、バプテスマの訳語をめぐる神学・礼拝上の対立や、平易な翻訳を目指す方針上の対立から独自の分冊版を刊行しはじめた。そして、1876年には翻訳委員社中を正式に脱退し、明治元訳よりも8か月早く『志無也久世無志与』(しんやくぜんしよ、1879年)を上梓した。この翻訳にはバプテスト派最初の日本人牧師川勝鉄弥が大きく貢献しており、ブラウンの訳文を全面的にチェックしていたとされる。このブラウン訳は、川勝やウィリアム・ホワイトらによって漢字交じりの改訂を受け、ブラウンの没後に『新約全書』(横浜浸礼教会、1886年)となった。ただし、後に改訳委員会にメンバーを送った代わりに、バプテスト派は独自の翻訳の刊行を取りやめることになる。
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