明治製菓設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 14:42 UTC 版)
相馬は明治製糖の社長に就任すると、経営の多角化に乗り出した。1916年(大正5年)に日本グリスリン工業株式会社(ダイナマイトの主要原料グリセリン、ステアリン酸、オレイン酸の製造)、日本原毛株式会社、大正製菓株式会社を次々と設立する。 大正製菓株式会社設立の背景には第一次世界大戦があった。大戦の影響でヨーロッパの製造業が大打撃を受け、菓子のような必需品とは言えないものはアジア各国に輸出されてこなくなった。当時の日本の大手洋菓子メーカーは森永製菓(払込資本金50万円)と東洋製菓(払込資本金10万円)ぐらいであり、日本の需要全部を賄えるだけの生産量ではなかった:1。相馬は砂糖の消費先としてそこに目を付け、製菓会社設立を決意した。 ところがそれよりわずかに先、濱口録之助が1916年(大正5年)8月に資本金100万円、払込資本金25万円で東京菓子株式会社を創立し、社長となっていた。これに対して明治製糖は資本金150万円、払込資本金37万5千円で12月に大正製菓を設立、すぐに東京菓子に合併話を持ち掛け、東京菓子を存続会社として合併を成立させる(資本金250万円、払込資本金62万5千円)。 東京菓子は大久保町に本社兼大久保工場を作り、キャラメルやビスケットなどの製造を始めた。東京菓子の設立により、森永製菓は資本金で業界2位となった。資本力の大きい明治製糖系の製菓会社は森永にとって脅威であり、一部の森永専属特約店の離反騒動も起こっている:63。 社長は引き続き旧東京菓子系の濱口録之助が続けたものの、株式の過半数は明治製糖が握った。経営陣は、社長、専務は旧東京菓子系、平取締役は旧東京菓子系と明治製糖系とで4名ずつとなった。1918年(大正7年)3月14日、明治製菓で旧東京菓子系の役員の内、取締役5名、監査役3名、相談役1名の9名が退職し、旧東京菓子系の役員は濱口社長と平取締役、監査役各1名のみとなり、4月4日には資本金200万円に減資となった。濱口社長も翌1919年(大正8年)に平取締役に降格、相馬の補佐役有嶋健助が専務として東京菓子のトップに立った。相馬は明治製糖では有嶋の上司だったが、東京菓子では引き続き平取締役を務めた。 相馬はさらに1918年(大正7年)、ゴム栽培にも手を付け、本社を東京、ゴム園をスマトラ島とするスマトラ興業を設立している。1920年(大正9年)には商社部門である明治商店創立、相馬は相談役となる。明治製糖は製糖業に留まらない大企業へと発展し、グループ企業全体を称して「大明治」と自称するようになった:157。ただし、何にでも手を出したわけではない。例えば部下がマカロニの製造販売を企画段取りし、有嶋の了承まで得て相馬の決裁を仰いだが、「うどん屋の真似はせん」との一言で否決されている。また牛肉の大和煮缶詰の販売に対しても、相馬は「四足のものはやらん」と否決している:334。
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