新港埠頭の造成と横浜周辺の鉄道網の拡張・再編
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「高島線」の記事における「新港埠頭の造成と横浜周辺の鉄道網の拡張・再編」の解説
西波止場・大桟橋・東波止場によりひとまず対外貿易港の役割を果たしていた横浜港であったが、これだけでは艀を経由した荷扱いを解消するには至らず、さらなる拡張を必要としていた。そのため、西波止場よりさらに西側に埋め立てを行って新港埠頭を増設する工事に1899年(明治32年)5月から着手した。海岸で艀扱いをしていた業者の要望などもあり、陸続きに埋め立てを行う計画を変更して島とすることになり、また凸状から凹状に形状に変更して岸壁の増大を図る設計変更などを行って、1914年(大正3年)に完成した。 新港埠頭の造成に合わせて、埠頭に乗り入れる臨港鉄道の建設工事も進められた。この臨港鉄道は初代横浜駅(桜木町駅)から延長する形で工事が行われ、従来の海岸付近への艀の出入りの利便を図って、大岡川河口の沖合に2つの細長い人工島を造成して、その間を橋で結ぶ形とされた。この各橋は横浜駅側から港一号橋梁 - 港三号橋梁となっており、港一号橋梁は1907年(明治40年)アメリカン・ブリッジ製100フィートトラス橋とプレートガーダー橋の組み合わせ、港二号橋梁は港一号橋梁と同じアメリカン・ブリッジ製100フィートトラス橋で、港三号橋梁は1909年(明治42年)川崎造船所製30フィートプレートガーダー橋であった。この経路は鉄道廃止後、遊歩道に整備されて汽車道として現存する。このうち港三号橋梁については、生糸検査所引き込み線に使われていた大岡橋梁の1874年ごろイギリス製の63フィートポニーワーレントラス橋を短縮したものを、従来のプレートガーダー橋の脇に移設保存してある。 この新港埠頭への臨港線は通称税関線(ぜいかんせん)と呼ばれ、複線で建設された。全長は約0.8 kmであったが、後に横浜港駅が開設された際には東横浜駅との距離は1.6マイル/2.5 kmとされている。新港埠頭内では各埠頭や倉庫の前まで引き込み線が伸ばされていた。1910年(明治43年)8月に一通りの工事が完成した。初めて臨港線が実際に利用されたのは、台風によって東海道本線が不通になったことにより、名古屋・清水から臨時に手配した船舶を横浜港新港埠頭まで運航した時に、仮設した横浜埠頭の駅から横浜駅まで乗客を輸送した際で、1910年(明治43年)8月15日のことであった。しかし、実際に貨物輸送に供用されるには時間がかかり、1911年(明治44年)2月に輸入豆粕の、5月に輸出茶の輸送試験を行った上で、9月1日に横浜港荷扱所が設置されて、一般に供用が開始された。初日の輸送は、製紙原料用ウッドパルプ30トンと機械14トンであった。 その後1912年(大正元年)に新港埠頭から本土への新港橋梁を架けて、横浜税関のところまでこの路線が延長された。この新港橋梁は1912年浦賀船渠製100フィートポニーワーレントラス橋で、大蔵省臨時建築部が設計したという珍しい鉄道橋である。 しかしこの新港埠頭への臨港線は大きな問題を抱えていた。貨物列車の運行には貨車の入換作業がつきものであるが、新港埠頭内には入換のための操車場を建設する余地がなかったのである。このため、入換は横浜駅において実施することとされたが、実際には横浜駅にも入換設備を増設する余裕はなかった。このため、折から進められていた東海道本線の線路改良計画と合わせて高島町に入換設備を持った駅を設置することになった。 この時代までの東海道本線は、新橋方面から来た列車は現在の桜木町駅にあたる初代横浜駅まで乗り入れた上で、そこで折り返して程ヶ谷駅(現・保土ケ谷駅)方面へ向かうスイッチバック構造になっていた。しかしこれに伴う運転上の手間は大きなものであったため、通し運転ができるようにする改良工事が計画され、2代目の横浜駅の建設が始められた。まず、初代の横浜駅から本線の線路に沿って貨物線が敷かれ、高島荷扱所まで1913年(大正2年)6月2日に開通した。続いて、2代目横浜駅が1915年(大正4年)8月15日に開業し、初代の横浜駅は桜木町駅に改称した。その後、桜木町駅までの電車の運転の準備が進み、1915年(大正4年)12月30日に旅客用の駅を桜木町駅、貨物用の駅を東横浜駅として分離した。この際に高島荷扱所を高島駅とし、高島と程ヶ谷を結ぶ複線の貨物線が開通した。この程ヶ谷と結ぶ貨物線は、横浜と桜木町を結ぶ電車用の線路をオーバークロスする関係で2代目横浜駅の駅舎前を高架で横切っており、せっかくの格式ある駅舎の景観を損なっていた。また高島 - 東横浜間が複線化され、初代横浜駅構内にあった横浜機関庫が高島に移転して高島機関庫となった。この高島機関庫が、臨港線の機関車運用の要となった。 さらに鶴見から高島を結ぶ路線の建設工事が進められ、1917年(大正6年)6月17日に鶴見 - 高島間4.1マイルが複線で開通した。この路線は先の横浜鉄道海陸連絡線と平面交差しており、交差地点に海神奈川信号扱所が設置された。また東神奈川と高島を結ぶ連絡線も同時に開通し、横浜線からの貨物列車が高島駅に乗り入れられるようになった。ただし、東神奈川から高島への線は構内の西側につながっていて東横浜・横浜港方面への線路とは直接つながっておらず、行き来には転線作業を行う必要があった。また、この東神奈川 - 高島間の支線上の駅として東高島駅が1924年(大正13年)10月1日に開設された。こうして鶴見から程ヶ谷まで旅客と貨物が別線になり、改良工事が完成した。新しく設置された高島駅が臨港線の貨車入換作業の核となり、新港埠頭の海陸連絡設備が完成することになった。 こうしてひとまず完成した横浜の臨港鉄道網は、折からの第一次世界大戦とその戦後の貿易量の増大によって活況を呈した。これに伴い1919年(大正8年)には東横浜駅の改良工事が実施されている。1920年(大正9年)7月23日に、横浜港荷扱所は正式に駅となり、横浜港駅となった。新港埠頭の4号岸壁の脇に島式ホームが設置され、日本郵船および東洋汽船のサンフランシスコ航路出航日に合わせて乗船客および見送り客を運ぶ旅客列車「ボート・トレイン」が運転されるようになり、限定的ではあるが旅客扱いをも行うようになった。1921年8月1日ダイヤ改正による時刻は東京9時15分 - 横浜港10時10分(第151列車)、横浜港12時35分 - 東京13時30分(第152列車)、東京12時35分 - 横浜港13時30分(第153列車)、横浜港15時25分 - 東京16時20分(第154列車)で、前の2列車が東洋汽船の、後の2列車が日本郵船の便に接続し、途中停車駅は新橋、品川、大森であった。
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