持明院統の分裂とは? わかりやすく解説

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持明院統の分裂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 09:40 UTC 版)

持明院統」の記事における「持明院統の分裂」の解説

現在の日本の皇室は、この持明院統の子孫であるが、初期から三分裂(後二条天皇流、後醍醐天皇流、常盤井宮流)していた大覚寺統ほどではないものの、持明院統後半では崇光院流と後光厳院流の二つ分裂した正平一統の際に、当時治天の君であった光厳上皇、その弟である光上皇当時北朝天皇である崇光天皇皇太子である直仁親王北朝皇族のほとんどが南朝軍に連行されてしまった。その際僧侶になる予定妙法院預けられていた崇光天皇弟宮確保した足利氏北朝廷臣図って、この宮を擁立した。これが後光厳天皇である。新帝三種の神器当時皇位継承法慣習法)において必要であった「治天による伝国の詔宣」を欠いた状態での即位余儀なくされた上、これに激怒した南朝軍によって京都追われ足利氏とともに美濃近江転々する経験をした。このため足利氏自分達と苦労を共にしてきた後光厳天皇重んじる姿勢示したその後南朝光厳法皇上皇)や崇光上皇らの返還応じたその際治天の君であった光厳法皇によって「持明院統嫡流」と位置付けられていた崇光上皇に対して南朝方は自身及び子孫皇位継承権放棄するように迫り誓約させた上で京都への帰還許した(『看聞御記永享5年11月23日条、『満済准后日記永享5年10月23日条、『建内記文安4年3月22日条)。光厳法皇や崇光上皇にとって本来は僧籍に入る予定であった後光厳天皇即位想定外であり、更に直仁親王出家してしまったため、法皇長講堂領など持明院統相伝所領のほとんどを崇光上皇与え皇位継承権崇光天皇の子孫(=崇光院流)にある姿勢明確にした。これに対して室町幕府後光厳天皇光厳法皇と崇光上皇出仕する公家処分する(『園太暦延文2年2月19日)として光厳法皇らを牽制している。また、後光厳天皇光厳法皇正平一統以前自身崇光天皇の子全て出家させて、直仁親王正平一統による廃太子後に出家の子孫に皇統一本化しようとしていた事情知っており、その可能性無くなった現在、従来皇位継承白紙になった捉えていた。 ところが、光厳法皇崩御すると、後光厳天皇自己の子孫皇位継承させたい願い室町幕府にその意向示した折しも幼少将軍足利義満時代であり、管領として義満庇護していた細川頼之幼少将軍では判断難しい事を口実として、天皇聖断に従う意向示した。これに従って後光厳天皇実子後円融天皇譲位、更に11年後後円融天皇実子後小松天皇譲位した際にも既に成人していた義満はこれに同意し後光厳院流が皇位継承することを支持する態度示した。これに崇光上皇激しく反発して実弟や甥と対立したものの、義満権勢前に如何ともしがたかった加えて南朝方と以前交した誓約後光厳院に対しても有効であるとみなされ、崇光上皇失意のうちに崩じた。崇光院流の後継者で本来であれば将来皇太子予定されていた栄仁親王祖父光厳法皇から保証されていた持明院統相伝所領のほとんどを後小松天皇奪われ失意のうちに出家した親王の子孫はその居所から「伏見宮」と称された。後小松天皇足利義満義持親子庇護受けて明徳の和約による皇統統一成功し続いて長男称光天皇皇位譲り院政開始した一方伏見宮栄仁親王とその長男治仁王相次いで没して衰退一途たどっていた。 ところが、称光天皇病弱の上子供恵まれず儲君とした弟の小川宮も兄に先だって没した後小松上皇というより、後光厳院流には他に皇位継承できる男性皇族存在しなかったために、その断絶可能性高くなった。一方南朝系の人々後南朝)はこれを見越して皇位継承求め動き活発化させていった苦悩し後小松上皇伏見宮継承していた栄仁親王次男・貞成王自己の猶子として親王宣下行い応永32年4月16日)、万が一事態備えようとした。ところが、皇位奪われるではないかと不安を抱いた称光天皇6月28日になって出奔図った(『薩戒記』)。これに驚いた後小松上皇一転して貞成親王出家迫り、閏6月3日親王出家させられることとなった。ところが、これによって皇位継承問題振り出し戻っただけではなく後小松上皇称光天皇貞成親王双方との関係を悪化させた。ところが、正長元年7月6日になって遂に称光天皇危篤陥った将軍足利義教7月13日貞成親王皇子彦仁王秘かに保護した上で後小松上皇今後判断委ねた上皇直ち彦仁王自己の猶子として皇位継承させることを決断し天皇崩御経た後の7月28日彦仁王自己の猶子として皇位擁立した。これが後花園天皇である。貞成親王時の失敗繰り返さないため、称光天皇生前にはこの計画極秘進められた。このため新天皇は親王宣下立太子もなく即位することとなった新天皇の元でも後小松上皇院政行ったが、貞成親王との確執は収まらなかった。上皇あくまでも後光厳流の継続意図して新天皇を崇光院流・伏見宮とは無関係な自分実子として扱おうとした。これには新天皇の即位によって皇統が崇光院流に復帰した考えた貞成親王反発した後小松上皇『本朝皇胤紹運録』編纂させ、南朝天皇記述排除するとともに後花園天皇自分の子として系譜に書かせ、伏見宮切り離して記させた。永享5年、既に法皇となっていた後小松法皇崩御した。その際に3ヶ条からなる遺詔残したことが『建内記』(文安4年3月6・23日条)及び『満済准后日記』(永享5年10月23日条)から知る事が出来る(ただし、後者は2ヶ条と記されている)。それは、「後光厳院流を断絶させないこと、すなわち貞成親王太上天皇尊号贈って後花園天皇との親子関係認めることは許さない」、「自分仙洞御所伏見宮貞成親王)の御所にしない」、「自己の追号後小松院とすること」であった(『満済准后日記』は尊号仙洞御所の件を合わせて後光厳院流を断絶させないこと」の1ヶ条とみなしたために2ヶ条と記されているのである)。後小松法皇側近たちはこの遺詔基づいて実子」である後花園天皇が父である後小松法皇喪に服する諒闇」の儀式を行うべきと主張した当時公家政権大きな影響力有した摂政一条兼良准后満済将軍足利義教らがこれに同意したために諒闇実施されることとなったこの際満済はかつての崇光天皇南朝方と誓約した件を持ちだし、崇光院流には皇位継承権がないことをほのめかす主張している(『満済准后日記永享5年10月23日条)。これに貞成親王激怒し、兼良や満済天皇への不忠詰っている(『椿葉記』)。 だが、後花園天皇成長すると、この状況に不満を抱くようになり、父である貞成親王や弟の貞常王を優遇する方法模索するうになる永享8年後小松法皇仙洞御所一部新し伏見宮邸の敷地として献上された(ただし、先の遺詔配慮して敷地全部明け渡すことは回避された)。続いて嘉吉3年には天皇から貞成親王に対して、まず貞常の元服親王宣下行いその後尊号奉る意向伝達された。(『看聞日記嘉吉3年4月26日条)。文安2年1445年3月16日関白二条持基加冠によって貞常王の元服が行われた。ところが、同時に行われるであった親王宣下中止され6月7日には「荒説」「云口」(すなわち悪口)を理由として後小松法皇側近であった広橋兼郷白川雅兼が追放されのであるその内容不明であるが、両者後小松上皇側近であり貞成親王への尊号と、その前提となる貞常への親王宣下反対して、貞成親王や貞常王に対す誹謗行ったとも言われている。この騒動後6月27日貞常王への親王宣下が行われた。続いて文安4年3月になると、後花園天皇貞成親王への尊号提案され激し議論が行われた。『建内記』の著者である万里小路時房後小松法皇遺詔持ちだして天皇激しく諌めたのもこの時のことであった。だが、天皇意思変えることは出来ず同年11月27日貞成親王天皇実父であることを理由太上天皇尊号贈られて、後に「後崇光院」と称されることとなった。これによって後光厳院流が称光天皇の代で断絶したことと崇光院流によって皇位継承が行われることが確認されのである。崇光院流が現在の皇室直接祖先にあたる。また、後花園天皇の弟である貞常親王は父・貞成親王崩御後伏見宮継承世襲親王家としての地位認められることとなった。もっとも、後小松法皇没後法要後花園天皇によって長く国家的行事として行われたに対して後崇光院法要国家的行事性格有していない(伏見宮家行事範囲行われている)ことから、後花園天皇自身による後光厳院流の継承否定していた訳ではないとする指摘もある。

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