批評・研究史
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「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「批評・研究史」の解説
映画デビューしてから長い間、ヒッチコックはイギリスやアメリカの英語圏である程度の商業的成功を収めていたにもかかわらず、大方の映画批評家からは器用なエンターテインメント作品を作る職人的な監督と見なされ、ストーリーテリングやテクニックは評価されても、それ以上の芸術性を持つ映画作家としては正当に評価されてこなかった。とくに1930年代にかけてのイギリスでは、知識人たちが映画を芸術ではなく下層階級向けの娯楽と見なして軽蔑し、映画批評家たちもドイツやソ連の芸術映画を賞賛する一方で、ハリウッドなどの娯楽映画を軽視する傾向があったため、その状況下で娯楽映画を作り続けたヒッチコックはジョン・グリアソン(英語版)などの見識ある映画人や批評家から「独創性を欠いている」「うぬぼれている」などと批判された。例えば、1936年にアーサー・ヴェッセロは、ヒッチコックのことを「すぐれた職人」と呼び、視覚的なテクニックを評価しながらも、「ヒッチコックの映画を全体として見た場合、知的な内容が乏しいためにまとまりがないと感じざるをえず、それゆえ失望がつきまとう」と述べた。アメリカ時代に移ってからの約10年間も真剣な批評や研究の対象になることは少なく、英語圏の映画批評はアメリカ時代よりもイギリス時代の作品を好む風潮が支配的となり、1944年にジェームズ・エイジーはヒッチコックの「凋落」が批評家の間で囁かれているとさえ述べた。 そんなヒッチコックの評価が大きく変化したのは、1951年に創刊されたフランスの映画誌『カイエ・デュ・シネマ』(以下、カイエ誌と表記)の若手映画批評家であるエリック・ロメール、クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールなどが、ヒッチコックを擁護または顕揚する批評を書き始めてからのことである。彼らは作家主義と呼ばれる批評方針を打ち出し、ヒッチコックを独自の演出スタイルや一貫した主題を持つ「映画作家(auteur)」として、同じく娯楽映画の職人監督と見なされていたハワード・ホークスとともに高く評価し、「ヒッチコック=ホークス主義」を自称して盛んにヒッチコック論を掲載した。これをきっかけにフランスでは、カイエ誌の批評家を中心とするヒッチコック支持者とその批判者との間で、芸術家としてのヒッチコックの評価をめぐる大きな論争が起きた。 1954年にカイエ誌はヒッチコック特集号を組み、トリュフォーやシャブロル、アンドレ・バザンによるヒッチコックへの取材記事などを掲載した。1957年にはロメールとシャブロルが共著で世界初のヒッチコック研究書『ヒッチコック』を刊行し、これまでカイエ誌の批評家によって盛んに論じられていた、秘密と告白や堕罪と救済などのカトリック的なヒッチコック作品の主題を真っ向から分析した。ロメールとシャブロルはこの本の掉尾で、ヒッチコックを「全映画史の中で最も偉大な、形式の発明者の一人である。おそらくムルナウとエイゼンシュテインだけが、この点に関して彼との比較に耐える。(中略)ここでは、形式は内容を飾るのではない。形式が内容を創造するのだ。ヒッチコックのすべてがこの定式に集約される」と評した。この本はヒッチコックが批評や研究の対象として本格的に取り上げられる大きなきっかけとなった。 カイエ誌の批評家がヒッチコックを称揚して以来、映画批評家の間ではヒッチコックの仕事を評価しようとする動きが広まった。1960年代から英語圏でも、作家主義の影響を受けた映画批評家を中心に、映画作家としてのヒッチコックをめぐる批評が進展した。イギリスでは、1965年にロビン・ウッド(英語版)が同国で初のヒッチコック研究書『Hitchcock’s Films』を刊行した。ウッドはヒッチコックをめぐる批評的議論が英語圏で普及するのに重要な貢献を果たしたが、ゲイ・レズビアン映画批評の先駆者でもあるウッドは、その観点からのヒッチコック作品の分析でも先鞭をつけた。アメリカでは、1962年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で行われたヒッチコックの回顧上映に合わせて刊行されたモノグラフの著者であるピーター・ボグダノヴィッチや、長年にわたりヒッチコックを支持したアンドリュー・サリスなどが、いち早くヒッチコックの作家性を高く評価した批評家として知られる。 こうしたヒッチコックの批評や研究の世界的な進展を後押ししたのが、1966年に英仏2か国語で同時刊行されたトリュフォーによるヒッチコックへのインタビュー集成『Le Cinéma selon Alfred Hitchcock』(英語版は『Hitchcock/Truffaut』、邦訳は『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』のタイトルで1981年初版刊行)である。この本はヒッチコックの63歳の誕生日にあたる1962年8月13日から8日間にわたり、ユニバーサル・ピクチャーズのスタジオで計50時間かけて行われたインタビューを書籍化したもので、当時までに作られたヒッチコックの作品の演出や技法などを1本ずつ詳細に検証している。この本はヒッチコック研究におけるバイブルとなり、映画作家としてのヒッチコックの評価の確立に最大の貢献を果たしただけでなく、今日まで「映画の教科書」と見なされる名著として知られている。 以後、ヒッチコックをめぐる学問的議論や研究は活発になり、社会・政治批評、構造主義、精神分析学、フェミニズム、映画史研究など、さまざまな立場から多様かつ緻密な研究が行われるようになった。フェミニスト映画理論の立場では、1975年にローラ・マルヴィがその先駆的論文『視覚的快楽と物語映画』でヒッチコック作品を議論の中心に取り上げ、それ以来ヒッチコック作品は理論の定式とその映画批評の実践において常に中心的な対象であり続けた。精神分析学の立場では、1988年に哲学者のスラヴォイ・ジジェクがジャック・ラカンの精神分析学を基盤にヒッチコック作品を分析した研究書を刊行した。ヒッチコックの死後数十年が経過してからも、その作品は現代の学者や批評家の間で大きな関心を呼び、伝記作家のジーン・アデアは「今日でもヒッチコックは、おそらく映画史の中で最も研究された監督である」と述べている。ヒッチコック作品をさまざまな視点から分析するエッセイや本は市場にたくさん出回っており、マクギリガンも「ヒッチコックは他のどの映画監督よりも多くの本が書かれている」と述べている。
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