評価の確立(1890年代)
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「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の記事における「評価の確立(1890年代)」の解説
1890年には、レジオンドヌール勲章の授与を打診されたが、辞退している。また、この年、7年ぶりにサロンに出品し、これを最後にサロンから引退した。この年、アリーヌと正式に結婚した。同年頃、ルノワール一家は、モンマルトルの丘のジラルドン通り(フランス語版)にある「ラ・ブルイヤール(霧の館)」に引っ越した。 1890年代初頭には、農作業をする女性や、都会の女性の牧歌的な情景を好んで描いた。そこでは、1880年代のようなはっきりした輪郭線はないが、かといって印象派の時代とも違い、人物がしっかりしたボリューム感を持っている。裸婦も好んで描いた。 1892年、美術局長官アンリ・ルージョンから、リュクサンブール美術館で展示すべき作品の制作依頼を受け、『ピアノに寄る少女たち』の油彩画5点、パステル画1点を集中的に制作した。これには、詩人ステファヌ・マラルメ、美術批評家ロジェ・マルクスの働きかけがあった。油彩画5点のうち、現在オルセー美術館に収蔵されている作品が、4000フランで政府買上げとなったもので、全体が暖かい色調で統一されている。同じ年、デュラン=リュエル画廊でルノワールの回顧展が開かれ、好評を博した。この頃、歯科医ジョルジュ・ヴィオー、仲買商人フェリックス=フランソワ・ドポー、劇場経営者ポール・ガリマール(フランス語版)など新しい愛好家も増えてきた。ルノワールは、同じ1892年、ポール・ガリマールに誘われてマドリードに旅行し、プラド美術館でディエゴ・ベラスケスの作品に感銘を受けた。 1894年、アリーヌとの間に、後に映画監督となる二男ジャン・ルノワールが生まれた。この年、アリーヌの遠縁の女性ガブリエル・ルナール(英語版)が、ルノワールの家のメイドとして働き始め、ジャンの世話をするだけでなく、ルノワールの絵のモデルも務めた。1896年の『画家の家族』には、「ラ・ブルイヤール」の庭先に、長男ピエールとその母親アリーヌ、幼いジャンとそれを支えるガブリエル、隣家の少女が勢揃いしているところが描かれている。 1894年2月、カイユボットが亡くなったが、カイユボットは、その遺言で、マネや印象派の作品68点をリュクサンブール美術館に、後にルーヴル美術館に収蔵すべく遺贈しており、その遺言執行者としてルノワールを指名していた。そのため、ルノワールは、この遺言実現のため奔走することになった。しかし、保守的な美術界や世論は、コレクションの受入れに反対し、大きな論争となった。結局、1896年、コレクションの一部がリュクサンブール美術館に収蔵されることで妥協が成立した。ルノワールの作品は8点中6点が受け入れられた。 1897年、自転車から落ちて右腕を骨折し、これが原因で慢性関節リウマチを発症した。その後は、療養のため冬を南フランスで過ごすことが多くなった。1899年、友人の画家ドゥコンシーの勧めで、カーニュ=シュル=メールのサヴルン・ホテルに滞在し、この町に惹かれるようになった。そして、パリ、エッソワ、カーニュの3箇所を行き来するようになった。 1900年、パリ万国博覧会の「フランス絵画100周年記念展」にルノワールの作品11点が展示された。同年8月、レジオンドヌール勲章5等勲章を受章した。これも同じ年、ベルネーム=ジューヌ画廊で大規模な個展を開催した。ベルネーム=ジューヌ兄弟は、1890年代初めから、積極的に印象派の作品を扱い、ルノワールとも親交を築いており、1901年と1910年にはルノワールがベルネーム=ジューヌの家族の肖像画を描いている。 1901年、エッソワで、アリーヌとの間に、三男クロードが生まれた。その頃、リューマチで階段を上がるのも難しくなったことから、モンマルトルのコーランクール通り(フランス語版)に移った。 『ピアノに寄る少女たち』1892年。油彩、キャンバス、116 × 90 cm。オルセー美術館。 『ガブリエルとジャン』1895-96年。油彩、キャンバス、65 × 54 cm。オランジュリー美術館。 『画家の家族』1896年。油彩、キャンバス、173 × 137.2 cm。バーンズ・コレクション。
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