紹鴎と「わび茶」
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現代の「わび茶」の概念を決定付けている『南方録』では、 みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮 という藤原定家の歌を紹鴎の「わび」の心であるとしている。南方録の資料的価値は低いが、最初に和歌の書跡を茶席に取り入れたのは紹鴎である。 『山上宗二記』においては、紹鴎が目指した茶の湯の境地とは 枯れかじけ寒かれ であったとされる。これは連歌師である心敬の言葉から引いたものである。 桑田忠親は、紹鴎が和歌を学んでいたことには大きな意味があると指摘する。歌道という、藤原定家ら前時代の歌人達によって体系化・整理された文化と茶道が融合し、茶道は芸術的な日本文化に昇華するに至ったと桑田は指摘する。わび・さびの由来である言葉「侘び」「寂び」も歌道由来の言葉、概念であり、これらを茶道の思想に持ち込んだのは村田珠光だとも言われるが、桑田は紹鴎が歌人でもあったことから、わびさびの概念を産み出したのは紹鴎ではないか、と推定している。 他方、神津朝夫は、『山上宗二記』の記述を元に、紹鷗の茶の湯は「わび茶」と呼ぶにはほど遠かったと指摘している。紹鷗は「茶の湯は正風体の盛りに死去」したと記されている他、紹鷗の茶室は、黒漆塗りの縁がつく張付壁(足利義政の東求堂同仁斎にも使われている壁)であったこと、名物茶道具を60種も所持していたこと、などを理由としてあげている。紹鷗が和歌から学んだのは、古い詞(ことば)を用いて新しい感覚の歌を詠むべき、という美意識を応用した、伝統的に評価の確立している茶道具をつかって新たな趣向を生み出す道具組みだった、としている。
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