紹鴎の茶の湯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:08 UTC 版)
『山上宗二記』によれば、紹鷗の茶の湯の最初の師は藤田宗理であり、その後、その師であり珠光の「跡目」とされる宗珠の直弟子になった。『南方録』、及びそのタネ本とされる『堺鏡』には、「珠光の弟子、宗陳・宗悟」の二人に習った、との記述があるが、「宗陳」という茶人は存在せず、『堺鏡』のタネ本である『堺数寄者の物語』には「宗珠・宗悟」とあることから、宗珠の「珠」の字が書き誤って伝わったものと考えられる。もう一人の「宗悟」は、『山上宗二記』によれば宗珠の弟子で、十四屋宗伍のことだとされているが、これも藤田宗理の「理」の字が書き誤って伝わった可能性がある。 紹鴎は三条西実隆から、良い和歌を作るにおいて大事なことは、稽古(勉強・経験の積み重ね)と創意工夫(学んだ通りをするのみではなく、自分で新しく生み出すこと)だと教わった。紹鴎は、実隆から教わったこの思想を、茶道にも取り入れてゆくこととなった。また紹鴎は実隆より、藤原定家の『詠歌大概之序』を伝授され、そこから茶道の真髄に目覚めたという。 32歳の時、奈良にある漆問屋の松屋を探訪、そこに飾られていた、徐熙の「白鷺の絵」を見て、村田珠光の茶道の茶味に目覚めた、という伝承がある。この白鷺の絵は非常に美しい絵であり、表装も煌びやかであった。村田珠光は、その表装をあえて枯淡なものに差し替えた。それを見て紹鴎は、枯淡な表装と美しい絵のコントラストの中に珠光の茶味を見出した、というのがこの伝説の趣旨である。この伝説は喧伝され、千利休も殊更に喧伝した。ついには、「白鷺の絵を見ていないものは茶人に非ず」というような言葉さえ飛び出すようになるほどであった。 大名物茶入「紹鴎茄子」の所持者であったこともある。 紹鴎の茶湯は、千利休、津田宗及、今井宗久に影響を与え、彼らによって継承された。特に利休は「術は紹鴎、道は珠光より」と説いており、これによって紹鴎の名声が広く知られることとなった。
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