紹鷗の茶室
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:08 UTC 版)
『山上宗二記』には、紹鴎の四畳半茶室の図が載っており、紹鴎当時の茶の湯座敷が看取できる。それによると、北向き、上り口にすのこ縁が付き、檜の角柱、張付壁、床は一間床、床框は「クリノ木、カキアワセニクロク十遍計ヌル」、鴨居内法も「常ノヨリヒキ(ク)シ」とある。なお、偽書の疑いがある『南方録』には、珠光が茶室の壁として張付壁を使っていたのを、紹鷗が土壁に変えた、と記述されている。 弟子である池永宗作による文献には、紹鷗が「茶室の中が明るすぎると、茶道具が貧相に見えてよくない。従って時間帯によって光が強くなる東、西、南向きの窓は避けるべきだ」と考えていたと記されている。 紹鴎は、4畳半茶室よりも小さい3畳半や2畳半の茶室を考案して「侘敷(わひしき)」と称した。4畳半以上の茶室を「寂敷(さひしき)」と区別して称した。後に千利休は「侘敷」と「寂敷」との区別を曖昧にしたことから、「わび・さび」の意味合いにおいて、深い混乱を生じさせる事になった。
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