批評・異説
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伊藤整の小説論では、まず文壇の中でのみ評価される従来の純文学作家の作品が世間に受け入れられた形態が風俗小説または中間小説であると言い、19世紀ヨーロッパのディケンズやバルザックなどに近い方向性としながら、しかし「通俗化への性急さと、大量生産的な競争意識によって悪く使われている」という現状認識もし(「現代文学の可能性」改造1950年1月号)、さらに当時の文学全体における市民からの遊離性について「中間小説を文学精神のダラクと批評」するだけでは解決できないと述べている(「中間小説の近代性」中央公論1950年3月号)。 1955年に北原武夫は『文學界』で「中間小説と実用文学」と題し、中間小説の場は文学と実人生の間にあるという説を唱える。中村光夫は1950年の「風俗小説論」などで、当時の風俗小説の流行を、「「文学」の理念の解体と喪失の歴史」「リアリズム技法の、たんなる職人的技術への「風化」の過程」など、近代日本文学の歪みとして弾劾したが、1957年の「中間小説論」では、「中間小説の問題の難しさは、それが小説の俗化と堕落であることは間違いないとしても(略)読者の要求は、少なくとも私小説の読者にくらべれば自然で健康だということです」「中間小説を生んだ現代の社会が、処女地が鍬を待つように、新しい芸術の出現を望んでいるのです」という認識も示した。 瀬沼茂樹は1959年に「文学によって人生の真相を知りたいという要求」から芸術小説が求められるが、「芸術小説はそうざらにできるものではないので、その代用品として人生の知恵を教える中間小説に赴くのである」と述べるが、「通俗小説や中間小説は、極めてありふれた月並なもの、あるいは出来あがった知識をあたえてくれるだけであろう」、また石川達三や井上靖について「人間性がこれまでになかった面をしめしている時代であるから、そこから人間性の秘密に切りこんでいこうとする」点で成功しているか疑問で、「ある種の通俗性・常識性をもったストオリ・テエラアにとどまるところがある」と評した。 社会派推理小説が台頭して高い評価を得るようになった1961年に、伊藤整は松本清張をプロレタリア文学が果たせなかったことを成し遂げたと絶賛し、こういった高評価が純文学論争の火種となった。その松本清張は1958 年に「小説に「中間は」無い」と題して、「(文学には)純文学と通俗文学の二つしかない。(略)内容的にはそのどっちかに属する」、また「小説が面白すぎると批評家のけいべつを買うようだ」といった立場を表している。一方で『小説現代』『オール讀物』に作品を発表していた五木寛之は「自分の作品を、いわゆる中間小説とも大衆文学とも思ってはいない。私は純文学に対応する<エンターテインメント>、つまり<読み物>を書いたつもりである」(短篇集『さらばモスクワ愚連隊』(1967年)の後記)と述べている。 1960年代のブームについて郷原宏は、現実からの救済として大衆小説を求めていた読者の、戦後の経済成長による嗜好の変化の結果であり、さらに管理社会のへの反抗として1970年代以降の西村寿行などのヒーローもの冒険小説が望まれたとしている。 吉行淳之介の定義では「中間小説とは、その原稿料が新聞小説と文芸雑誌の小説との中間のものである」とされる。また中間小説かどうかは挿絵が付くかどうかであるとも言われ、挿絵小説の呼び名もあった。 戦後すぐの頃に多く出版されたカストリ雑誌は、エロ・グロを中心にしていたが、柴田錬三郎や有馬頼義を始め、その後著名となった作家も作品を発表している。また1946年創刊の『ロマンス』や、織田作之助の絶筆「恐るべき女」を連載した『リベラル』、1949年に永井荷風「四畳半襖の下張」を初めて掲載した『ブラック』など、一流作家作品を掲載する雑誌もあり、これらを中間小説誌の「プロトタイプ」と呼ぶこともある。
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