悪妻説
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「マリア・アンナ・アロイジア・ケラー」の記事における「悪妻説」の解説
ハイドンが書いた楽譜を破いて、野菜を包んだり、ケーキの台紙にしたり、料理の包み紙に使ったりしていたらしい。 無教養で夫の仕事には全く理解がない。ハイドンは、「あいつは、自分の亭主が芸術家だろうが、靴屋だろうが、どうでもいいんだ」と言っている。そのうえ美人ではなく、浪費家でやきもち焼きで怒りっぽかった。 マリアは夫が自分より先に死ぬと考え、「自分が未亡人になったら住みたいから、あの家を買ってくれ」と言ったりしていたらしいが、ハイドンはマリアより長生きしたため、これは実現されなかった。 ある日、ハイドンの「天地創造」が大成功と報告を聞いたマリアは、「評判がいいようだね。べつに私の知ったことじゃないけどさ」と言ったという。 マリアは借金が相当あり、ハイドンは金に困っていた。それにハイドンのことを「けち」と噂したりした。 ハイドンは、マリアが亡くなった後「悪妻」Hob.XXVIIb-23という題のカノンを残している。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。
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悪妻説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 03:31 UTC 版)
先にも述べたように、鏡子に対しては悪妻、猛妻のイメージがついて回っている。確かに、男尊女卑の風潮が強く、大人しい良妻賢母がよしとされた当時の人々からすれば、鏡子の行動はそのように受け取られてもやむをえない面があった。 また、『漱石の思ひ出』では、漱石の精神状況の悪さについてしばしば言及している。 「いきなり屏風の陰へ来て、『おまえはこの家にいるのはいやなのだが、""おれ""をいらいらさせるためにがんばっているんだろう』などと悪態をついたりするのです」(文庫本第20章より) 同書に描かれた漱石の姿は、漱石の門下生、特に「漱石神社の神主」と言われるほど漱石の理想化に努めていた小宮豊隆にとって認めがたいものであった。小宮は『夏目漱石』(1938年刊)の中で、 鏡子には、漱石がなぜそう自分を憎むのか、なぜそう癇癪を起こすのか、その理由が解らなかった。(中略)想像力を持たず、神経も遅鈍で反省することを知らない人間が「自分にはそんなことをした覚えはない」と言い張っている間に、漱石はそのために傷つけられ、そのために悩み、そのために狂って停止することを知らない状態に置かれる 等、これらの記述を鏡子の鈍感さや無理解を示すものとして、悪妻説を流布させた。また、永井荷風は『断腸亭日乗』1927年9月22日の条で「縦へ其事は真実なるにもせよ、其人亡き後十余年、幸にも世人の知らざりし良人の秘密をば、未亡人の身として今更之を公表するとは何たる心得違ひぞや、見す見す知れたる事にても夫の名にかかはることは、妻の身としては命にかヘても包み隠すべきが女の道ならずや」等、このような事実を公表すること自体が婦道に反するとしている。 しかし、長女の筆子や次男の伸六は、自分たちも子供のとき漱石によく暴力を振るわれたと証言し、鏡子を支持している。また、2004年に発売された『文藝春秋』の臨時増刊号「夏目漱石と明治日本」に寄稿された孫の末利子と夏目房之介(長男・純一の子)の手記によれば、鏡子にも多少問題はあったものの、性格に裏表がなく、弱いものに対する慈しみの気持ちの強い、子供や孫に慕われる良き母であり良き祖母であったとされている。また、房之介が小説『坊っちゃん』の主人公を暖かく見守る下女・清(きよ)について、鏡子の本名がキヨであることに注目して、この作品が漱石から鏡子に宛てたラブレターだったのではないか、と指摘している。 出久根達郎は同誌に寄稿された記事で、漱石と鏡子との間に2男5女が生まれたことや、漱石が経済的に苦しい立場にあるかつての教え子たちに金銭面での援助をする際に、鏡子が漱石に言われたとおりにポンと、当時としてはかなりの額の金銭を貸与している事実を挙げて、鏡子から金を借りることの多かった連中が若者特有の反発心や大金を借りることへのバツの悪さを感じたことから、鏡子悪妻説が出てきたのではないかと指摘している(鏡子と門下生の年齢差は古株の森田草平で鏡子が4歳年長、漱石晩年に門下入りした芥川龍之介でも鏡子が15歳年長という程度であった)。末利子の夫半藤一利も『漱石俳句探偵帖』(文春文庫)で同様の説を述べている(pp.221-224。一利によると、漱石夫妻が門下生に貸した金は相当の額が貸し倒れになっていたという)。 漱石の門下生の一人であった和辻哲郎は随筆『漱石の人物』にて、漱石の長男純一は父漱石に「気違いじみた癇癪持ち」という憎悪の篭もったイメージを抱いており、和辻が説得してもついに純一の認識は変えられなかったというエピソードを紹介している。その上で和辻は、漱石のしつけの一環としての折檻・創作家特有の癇癪の爆発による折檻について、漱石の側にも問題があったことを指摘しつつも「純一君の場合は、母親がこの緩和につとめないで、むしろ父親の癇癪に対する反感を煽ったのではなかろうか」と述べ、同時に『漱石の思ひ出』中に見られる『道草』執筆時期の漱石の精神病的な描写を挙げて 並べられているいろいろな事実から判断すると、夫人の観察は正しいと考えざるを得ないであろう。しかし実際に病気にかかったのであったならば、『吾輩は猫である』や『道草』などは書かれるはずがないと思う。当時漱石は、世間全体が癪にさわってたまらず、そのためにからだを滅茶苦茶に破壊してしまった、とみずから言っている。猛烈に癇癪を起こしていたことは事実である。しかしその時のことを客観的に描写し、それを分析したり批判したりすることができたということは、漱石が決して意識の常態を失っていなかった証拠である。それを精神病と見てしまうのは、いくらか責任回避のきらいがある。一体にこの『漱石の思い出』は、漱石を「気違いじみた癇癪持ち」に仕上げて行く最後のタッチであったような気がする。 — 和辻哲郎、『漱石の人物』 として、漱石の描かれ方に一定の理解を示しつつも、総じて鏡子に対し批判的な見解を示している。
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