彌助とは? わかりやすく解説

やすけ【弥助】

読み方:やすけ

《「義経千本桜」に登場する鮨屋(すしや)の名から》異称

朝飯がすすまずば後刻(のちかた)に—でも誂(あつら)えようか」〈一葉たけくらべ

「弥助」に似た言葉

弥助

作者森敦

収載図書森敦全集 第3巻 作品 3
出版社筑摩書房
刊行年月1993.1

収載図書戦後短篇小説再発見 7 故郷異郷幻影
出版社講談社
刊行年月2001.12
シリーズ名講談社文芸文庫


弥助

読み方:やすけ

  1. 酢(※「」か)ノコトヲ云フ。〔第三類 飲食物之部・徳島県

分類 徳島県


弥助

読み方:やすけ

  1. 握り鮓をいふ。義経千本桜鮓屋の婿の名より起る
  2. のこと、千本桜狂言に、平家の大将維盛没落の後、釣瓶鮨弥左衛門が家に身を隠し、娘阿里が婿となり、弥助と称す蓋し此名に因縁して、今日は握を指す花柳界及び劇場等の通語となれり。
  3. にぎりずし(握寿司)をいふ。東京芝居又は客商売の人などの語。もと義経千本桜といふ浄瑠璃にある寿司屋の名より出づ
  4. 握り寿司のことをいふ。義経千本桜鮓屋の婿を弥助といふから起つたもの。
  5. 握り寿司の事。
  6. 寿司屋
  7. すし。
  8. 寿司のことをいふ。
  9. のこと、歌舞伎義経千本桜鮨屋の段から出た語。
  10. すし()。〔俗〕
  11. のこと。浄瑠璃義経千本桜鮓屋の段から出たもので、平家の大将惟盛が敗軍落ちのびて、大和下市釣瓶すし、旧臣弥左衛門方へ下男弥助と変名して隠れているうち、この家の娘お里が「過ぎつる春の頃、色めづらしい草中へ、絵にあるよう殿御のおいで、惟盛様とは露知らず、女の浅い心から可愛らしい、いとしらしいと、思いそめたが恋のもと……」のロマンス生んだので、これからヒントになつてのことを弥助と洒落るようになつたもの。(※以下略

分類 ルンペン大阪、俗/一般東京花柳界芸能花柳界芸能露店商

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弥助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/15 05:45 UTC 版)

やすけ

弥助
生誕 1550年代?[注釈 1]
モザンビーク?
死没 没年不明(1582年以降)
別名 彌助[2][3]、弥介、彌介
職業 織田信長の従者[4]
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
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弥助(やすけ、生没年不詳)は、安土桃山時代の日本に渡来した黒人男性。宣教師から織田信長へと進呈され、信長が死去するまでの約15か月間、彼に仕えた。名は弥介[4][5](彌介[6])とも書かれる[注釈 2]

生涯

『南蛮屏風』(狩野内膳画)。黒人の従者と象使いが描かれている[7]
日本に到来したイエズス会宣教師たち。彼らに付き従う黒人の従者が描かれている。

生い立ち

弥助はモザンビークの出身で[8]イエズス会イタリア人巡察師[9]アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日する際にインドから連れてきたという[8][10]

ヴァリニャーノは1574年3月にポルトガルを出発し、7月にモザンビークへ、その後9月にインドのゴアに到着した[11]1577年9月までインドで巡察を行った後、マラッカマカオに滞在し、1579年7月に日本へと出発する[12]

戦国時代には、ポルトガルやスペインなどヨーロッパの船が日本を訪れるようになっており、アフリカ出身の人々も、従者または奴隷として連れてこられていた[13]1546年に日本に来航したポルトガル人船長ジョルジ・アルヴァレスは、船員もしくは下僕として黒人を連れていたとみられ、1548年11月付のフランシスコ・ザビエル宛ての報告で、日本人は黒人を見ることを喜び、100キロメートル近く離れた場所からも見にくると記している[14]。この後、日本側の記録に黒人が登場するのは、1581年天正9年)の『信長公記』における弥助の記述が最初となる[15]

来日後の弥助

1579年7月25日(天正7年7月2日)に島原半島南端の口ノ津に到着したヴァリニャーノは、その後、豊後国に移り[16]、1581年3月8日(天正9年2月4日)、畿内に向け出発した[17]。豊後を出たヴァリニャーノに同行したのは、ルイス・フロイスやロレンソ・メシア(メシヤ)ら4人の司祭と3人の修道士、そして黒人で[17]、これが弥助とされる[18]

ヴァリニャーノたちは1581年3月17日(天正9年2月13日)にに到着し、その2日後に堺を出ようとしたが、その際、非常に背の高いヴァリニャーノと黒人の弥助を見るために、群衆が待ち受けていた[19][20]。これにより、ヴァリニャーノたちが狭い場所を通る際、道端の店が荒らされることになったという[19][20]

1581年3月26日(天正9年2月22日)、ヴァリニャーノ一行が織田信長との謁見のため京都に入ると、黒人の噂はたちまち広まって群衆が南蛮寺へと殺到し、投石のため負傷者が出て、死者も出そうになった[19][21]。その噂を聞いた信長の招きを受けて、3月27日(和暦2月23日)、都の教区長である[22]オルガンティーノが弥助を連れて、信長の滞在する本能寺に赴いた[19][23]

その時の様子が『信長公記』巻十四に記されている[24]。そこには「二月廿三日、きりしたん国より黒坊主参り候。年の齢廿六、七と見えたり。惣の身の黒き事、牛の如し。彼の男、健やかに、器量なり。しかも、強力十の人に勝たり」とある[25]。ルイス・フロイスやロレンソ・メシアの書簡によると、信長はその肌が墨を塗ったものでなく自然のものであると信じずに、帯から上の着物を脱がせたという[26][27]。さらに信長が体を洗わせたところ、白くなるどころか一層黒くなったとされる[28]

メシアによると、弥助は日本語を多少話すことができた[29][30]。また、力が強く、少しの芸ができたため、信長は喜んで庇護し、弥助に人を付けて市内を巡らせたという[29][30]。弥助の姿を見た者の中には、信長は弥助を「殿(Tono)」にするだろうと言う者もいたとされる[29][31]。また、『信長公記』尊経閣十五冊本[注釈 3]には、この「黒坊」が「弥助」と号したことや、扶持や「さや巻之のし付[注釈 4]」ならびに私宅を与えられ、時には「御道具」などを持たせられたとの記述がある[38]

1581年5月14日(天正9年4月12日)、ルイス・フロイスが修道士や信者、黒人と共に越前国北庄に赴いた[39]。藤田みどりは、京都に来た黒人は弥助が初めてだったとの記録があることなどから、この黒人を弥助としている[39]。越前に向かう途中の長浜では、黒人だけでなく白人が来たのも初めてだったため大きな騒ぎとなり、宿舎とされた家にフロイスらが入ると、黒人を見ようとした群衆がその戸を破って入ってくるということが3、4度起きたという[40][41]。その後、北庄に滞在したフロイスら一行は5月30日(和暦4月28日)に京都に戻った[39]

次に弥助の記述が現れるのは、徳川家康の家臣・松平主殿助の著した『家忠日記』天正10年4月19日(1582年5月11日)条においてである[42]甲州征伐からの帰途、織田信長が徳川家康の支配地を訪れた時の記録で[5][43]、そこには「上様御ふち候大うす進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥介[注釈 5]ト云」と記されている[5][43]

本能寺の変

天正10年6月2日(1582年6月21日)、京都本能寺に滞在する織田信長を明智光秀の軍勢が襲う本能寺の変が起きた[46]。変の際の弥助について、信長の死後、その嫡男である信忠のもとへと駆け付け、そこで戦った末、明智方に降伏したとされている[47]。『イエズス会日本年報』には、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸[注釈 6]に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」とある[50][51]。また、家臣に弥助をどう処分すべきか聞かれた光秀は、「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として、「インドのパードレの聖堂に置け」と命じたという[50][51]

その後の弥助の消息については一切不明である[52]

弥助以後

その後の文献にも黒人の描写はあり、弥助の記録が途絶えた後にも黒人が来日していた様子がうかがえる。

1584年(天正12年)、島原において有馬晴信龍造寺隆信の戦いが起きた(沖田畷の戦い[53]。フロイスの『日本史』や『イエズス会日本年報』所収の報告書によると、その戦いの際、有馬方に大砲があったものの、それを扱える者がいなかった[53][54]。そのため、その場に居合わせたアフリカ黒人が砲弾を装填し、インドのマラバル人が点火を行い発射したという[53][54]

1593年文禄2年)、肥前名護屋にて豊臣秀吉がポルトガル人総司令官(カピタン・モール)のガスパル・ピント・ダ・ロシャを引見した[55]。カピタンは「金色の槍を携えたカフル人[注釈 7]を護衛として」連れており、太鼓と笛を持った赤い衣装の黒人たちは秀吉の望みにより踊りを披露した[55][58]。秀吉は彼ら一人一人に、自らの手で褒美として白い帷子を与えている(『日本史』)[55][58]

登場作品

弥助が主人公として描かれている作品は★印。弥助をオマージュした主人公は☆印。

小説等
漫画
アニメ
ドラマ
ドキュメンタリー
  • 「Black Samurai 〜信長に仕えたアフリカン侍・弥助〜」(2021年5月15日、NHK BSP[69]
映画
  • 大帝の剣』(2007年、東映)‐ 夢枕獏原作、天沢彰脚本による映画。主人公の万源九郎はヤスケの孫という設定である。
  • 』(2023年、北野武監督作品、KADOKAWA) - 演:副島淳
  • 『Yasuke』[70](公開未定、ライオンズゲート→Picturestart)★ - 2017年3月、実話を元に弥助を描く映画『Black Samurai』の脚本家として、ライオンズゲートがグレゴリー・ワイデン英語版を起用したことが報じられた[71][72]。その後、製作を指揮していたエリック・フェイグ英語版がライオンズゲートから離脱[73]。『Black Samurai』のプロデューサーだった[71][72]マイケル・デ・ルカやスティーヴン・ルルーらと共に、自身のPicturestartで弥助を描く映画の製作を開始した[73]。脚本はダグ・ミロ[73]。2019年5月、チャドウィック・ボーズマンが弥助を演じることが発表されたが[73]、2020年8月にボーズマンは死去した[74]。Picturestart公式サイトでは「開発中(In Development)」となっており、監督および主演は「未定(TBD)」となっている(2024年時点)[70]
  • 『Yasuke』(公開未定、MGM[75])★ - 2019年4月に製作が報じられた[75]。脚本はスチュアート・C・ポール[75]。製作はWhalerock Industriesロイド・ブローン英語版とアンドリュー・ミットマン[75]
ゲーム
舞台

脚注

注釈

  1. ^ 『信長公記』の1581年の記述に「年の齢廿六・七と見えたり」とある[1]ことによる。数え年で26なら生年は1556年、27なら1555年となる。
  2. ^ 「弥助」と書く例は金子 (2009, p. 312) やソウザ & 岡 (2021, p. 30) に見られる。
  3. ^ 尊経閣文庫に所蔵される写本の一つ[32]金子拓は、成立時期の遅い伝本で削除された信長の身の回りの細々とした記述が見られることなどから、初期の稿本が元になったとしている[33]。なお、弥助に関わることなど、尊経閣十五冊本でのみ見られる記述については、書写過程で加えられた可能性もある[34]
  4. ^ 『精選版 日本国語大辞典』などで「鞘巻」は腰刀の一種とされる[35]。『信長公記』巻十二に記載される「さやまきののし付」[36]は、中川太古による現代語訳では「金銀飾りの鞘巻き」とされている[37]
  5. ^ 1897年明治30年)の覆刻版[44]では「弥助(彌助)」と書かれる[3][45]
  6. ^ 『イエズス会日本年報』には、変が起きた当初「世子の邸」「寺院」にいた信忠が、付近にあった「内裏の御子の居」に移ったと記されている[48]。この時の信忠の動きとしては、宿所としていた妙覚寺から隣接する二条御所に移って明智軍と戦ったことが知られている[49]
  7. ^ 「カフル(cafre)」はアフリカ東海岸、特にモザンビーク周辺を指す言葉[56]。文献上、弥助も「カフル人(cafre)」と記されている[57]

出典

  1. ^ 岡田 1999, p. 99; 藤田 2005, p. 4.
  2. ^ 徳富猪一郎近世日本国民史 織田氏時代 後篇民友社、1919年、480頁。全国書誌番号:50006146https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3433675/275 
  3. ^ a b 柴田顕正 編『岡崎市史別巻 徳川家康と其周囲 中巻岡崎市役所、1934年、440頁。全国書誌番号: 46079204https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170606/243 
  4. ^ a b 岡田 1999, p. 420.
  5. ^ a b c 盛本昌広『家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ』KADOKAWA〈角川ソフィア文庫〉、2022年(原著1999年)、56–59頁。 ISBN 978-4-04-400714-0 
  6. ^ 藤田 2005, pp. 1–9; ソウザ & 岡 2021, p. 215.
  7. ^ 藤田 2005, pp. 21–25.
  8. ^ a b 藤田 2005, pp. 56.
  9. ^ 松田 1965, pp. 23–34.
  10. ^ François Solier (1627). Histoire Ecclesiastique Des Isles Et Royaumes Du Japon. 1. Cramoisy. p. 444. https://books.google.co.jp/books?ei=eJjFUe3tK4SEkgXlxoGICQ&hl=ja&id=pQE_AAAAcAAJ&dq=&jtp=444#v=onepage&q&f=false 
  11. ^ 松田 1965, p. 34.
  12. ^ 松田 1965, pp. 34–40.
  13. ^ 第2章 日本に渡ったアフリカ人”. 本の万華鏡 第14回 アフリカの日本、日本のアフリカ. 国立国会図書館. 2024年9月16日閲覧。
  14. ^ 藤田 2005, pp. 1–2.
  15. ^ 藤田 2005, pp. 3–4.
  16. ^ 松田 1965, pp. 53, 68, 85.
  17. ^ a b 松田 1965, p. 91; 藤田 2005, p. 7.
  18. ^ 藤田 2005, p. 7.
  19. ^ a b c d 1581年4月14日付ルイス・フロイス書簡。
  20. ^ a b 村上 1943, p. 127; 松田 1965, p. 93; 藤田 2005, p. 7.
  21. ^ 村上 1943, pp. 131–132; 松田 1965, pp. 97–98; 藤田 2005, pp. 4–5.
  22. ^ 松田 1965, p. 95.
  23. ^ 村上 1943, pp. 131–132; 松田 1965, p. 98; 藤田 2005, pp. 4–5.
  24. ^ 太田 1921, p. 204; 松田 1965, p. 99; 藤田 2005, p. 4.
  25. ^ 藤田 2005, p. 4. 藤田の引用元は、桑田忠親校注『改訂信長公記』(新人物往来社、1978年).
  26. ^ 1581年4月14日付ルイス・フロイス書簡、1581年10月8日付ロレンソ・メシヤ書簡。
  27. ^ 村上 1943, pp. 132, 185–186; 松田 1965, p. 98; 岡田 1999, p. 421; 藤田 2005, pp. 4–5.
  28. ^ 松田 1965, p. 98; 藤田 2005, p. 5.
  29. ^ a b c 1581年10月8日付ロレンソ・メシヤ書簡。
  30. ^ a b 村上 1943, pp. 185–186; 松田 1965, p. 99; 岡田 1999, p. 421; 藤田 2005, p. 6.
  31. ^ 村上 1943, pp. 185–186; 岡田 1999, p. 421; 藤田 2005, p. 6.
  32. ^ 金子 2009, p. 293.
  33. ^ 金子 2009, pp. 313–314, 380.
  34. ^ 金子 2009, pp. 295–313.
  35. ^ 鞘巻https://kotobank.jp/word/%E9%9E%98%E5%B7%BBコトバンクより2024年9月16日閲覧 
  36. ^ 太田 1921, p. 159.
  37. ^ 太田 & 中川 2013, p. 339.
  38. ^ 金子 2009, pp. 311–312.
  39. ^ a b c 藤田 2005, pp. 7–8.
  40. ^ 1581年5月19日付ルイス・フロイス書簡。
  41. ^ 村上 1943, pp. 140–141; 藤田 2005, pp. 7–8.
  42. ^ 藤田 2005, pp. 6, 8.
  43. ^ a b 藤田 2005, p. 6.
  44. ^ 岩沢愿彦家忠日記の原本について」『東京大学史料編纂所報』第2号、1967年https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/2/ 
  45. ^ 松平 1897, 53丁表.
  46. ^ 岡田 1999, pp. 76, 374–377.
  47. ^ 藤田 2005, pp. 8–9.
  48. ^ 村上 1943, p. 257.
  49. ^ 岡田 1999, pp. 374–377.
  50. ^ a b 1582年11月5日付ルイス・フロイス書簡。
  51. ^ a b 村上 1943, p. 258; 岡田 1999, pp. 420–421; 藤田 2005, pp. 8–9.
  52. ^ 藤田 2005, p. 9.
  53. ^ a b c 村上 1943, p. 433; 藤田 2005, pp. 10–11.
  54. ^ a b ルイス・フロイス 著、松田毅一・川崎桃太 訳『完訳フロイス日本史10 大村純忠・有馬晴信篇II 大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗』中央公論新社〈中公文庫〉、2000年、284–285頁。 ISBN 978-4-12-203589-8 
  55. ^ a b c 藤田 2005, p. 11.
  56. ^ ソウザ & 岡 2021, p. 17.
  57. ^ ソウザ & 岡 2021, p. 30.
  58. ^ a b ルイス・フロイス 著、松田毅一・川崎桃太 訳『完訳フロイス日本史3 織田信長篇III 安土城と本能寺の変』中央公論新社〈中公文庫〉、2000年、317–318頁。 ISBN 4-12-203582-1 
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  63. ^ 時代考証009”. 新井淳也. 2019年4月23日閲覧。
  64. ^ 梶川卓郎西村ミツル第244話 大航海時代と料理」『信長のシェフ』 29巻、芳文社、2021年4月15日、158頁。 ISBN 9784832238176https://www.cmoa.jp/title/60376/vol/29/。「おぬしはわしが貰うた 働きいかんでの身分や報酬はわしが確約しよう」 
  65. ^ YASUKE(漫画)”. マンガペディア. 株式会社DIGITALIO. 2023年9月12日閲覧。
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  67. ^ imdkm (2021年6月17日). “TAKU INOUEが「YASUKE -ヤスケ-」に見たフライング・ロータス(Flying Lotus)のおたくな仕事人っぷり フライング・ロータス『YASUKE』”. Mikiki. TOWER RECORDS ONLINE. 2023年2月15日閲覧。
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  76. ^ ダウンロードコンテンツ”. 信長の野望・創造. コーエーテクモゲームス. 2024年9月7日閲覧。

参考文献

史料

関連文献

  • 藤田緑『日本におけるアフリカ像の変遷』(博士(学術)論文)東京大学、1997年、10–20頁。doi:10.11501/3158419。学位授与番号: 乙第13482号。 

外部リンク


弥助(やすけ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:25 UTC 版)

カムイ伝」の記事における「弥助(やすけ)」の解説

カムイの父で、夙谷部落の小頭罪人処刑牛馬死体処理など、人が嫌う仕事請け負う部落民の掟に従いながら生きている。妻を亡くし男手一つ子供養っていたが、息子カムイ(弟)が処刑されるなど、過酷な日々を過ごす。

※この「弥助(やすけ)」の解説は、「カムイ伝」の解説の一部です。
「弥助(やすけ)」を含む「カムイ伝」の記事については、「カムイ伝」の概要を参照ください。

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