外交顧問としてのアメリカ独立戦争
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「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「外交顧問としてのアメリカ独立戦争」の解説
王の密命を帯びてデオン・ド・ボーモンと交渉に当たっていた1775年は、アメリカ独立戦争の勃発した年でもあった。当時のフランスは、七年戦争での敗北をいまだに引きずっていた。この戦争で100万人近い人員を失い、大量の領土を奪われた挙句、屈辱的な譲歩を強いられていたためである。その結果、イギリス海軍は太平洋の制海権を掌握し、まさに世界最強として実力を誇示していたのだ。 イギリスに滞在していたボーマルシェは、デオンとの交渉にのみ専念していたわけではなかった。交渉に当たりつつも、イギリスの外務大臣ロシュフォード卿や、首相であるフレデリック・ノースやロンドン市長ジョン・ウィルクスの邸宅に出入りして、反乱軍に共鳴する人間と通じ合い、アメリカ独立戦争に関する情報を得ていた。その結果、この独立戦争がどのようになろうが、いずれにしても「フランスはアメリカを極秘に支援するべき」との考えに達した。1775年9月ごろから、ルイ16世と外務大臣ヴェルジェンヌに宛てて、アメリカを支援するように説得する手紙を何通も送っている。 その内容を簡潔に要約すると、「フランスはアメリカを支援するべきである。もし反乱軍が敗北したならば、彼らはただ傍観していたフランスを恨みに思って、イギリスと結託して攻撃してくるだろう。その結果、再び大損害を被って、ますますイギリスとの国力の差が広がることとなる。そうならないためにもフランスは反乱軍を支援しなければならないが、正面切ってイギリスと戦う余裕はまだないから、その準備をしつつアメリカを極秘に支援しなければならない。そのためにイギリス本土で正確な情報を獲得できる人間が必要だが、その任に私よりふさわしい人間はいない。」となる。外務大臣ヴェルジェンヌもこの意見に納得したようで、国王ルイ16世に進言し、ボーマルシェを正式にその任に当たらせることにした。こうしてボーマルシェは、単なる王の私設外交官から、外交顧問となったのである。 ボーマルシェはこの任務に特に意欲的であったようで、イギリスの政権与党のみならず、野党など幅広い人物から情報を獲得しようと努めた。フランスに帰国するたびに国王の側近大臣に情報を伝え、米英の分断政策を展開するように進言したが、いくら大臣とはいえ、決裁権を持たない人間相手では一向に埒が明かなかった。そのため、やがて国王に直接手紙を送り、丁寧に、しかしけしかける様にアメリカを支援するよう提案を行ったが、国王の態度は煮え切らなかった。だが、それも当然といえば当然であるだろう。いくら植民地側に反乱を起こす大義があったとしても、他国であるフランスがそれを公に認めて支援を行えば、それはすなわちイギリスへの宣戦布告と同様の意味を持つ。先述したように、この当時はイギリスはまさに世界最強であったし、フランスは国力を弱めていたから、攻撃されればひとたまりもなかったのである。ボーマルシェもこの点は承知していたようで、1776年2月29日の手紙ではイギリスの情勢を紹介し、反乱軍がフランスの支援がないことに絶望しかかっていると様子を伝えた上で、火中の栗たるアメリカ支援任務は自分が引き受けることを主張した。 こうして、正式にアメリカ支援の任務に当たることになったボーマルシェであったが、やはり慎重な姿勢を崩さないフランス政府は条件を付けてきた。アメリカ反乱軍を支援はしたいが、イギリスを刺激するのは国家存亡に関わる。そのため政府としての支援ではなく、単なる個人的投機として誰の目にも映るようにしてもらいたい、というのがその条件であった。そのための方法も詳しく指定されており、それによれば「ブルボン王家と親しく、利害関係のあるスペイン王家とフランス政府からの200万リーヴルと、それに民間から出資者を募って集めた資金を基に商社を設立し、アメリカ反乱軍に必要な武器弾薬などを提供する。フランス政府が武器を調達して商社に売り渡すが、反乱軍には金ではなく、物を要求しなければならない。」というものだった。 1775年9月6日、高等法院の判決によってボーマルシェは正式に社会的復権を果たした。商社設立のための障壁は完全に取り除かれたが、その設立のために必要な民間出資者がなかなか集まらなかった。それでもなんとか資金を集め、同年10月に「ロドリーグ・オルタレス商会」なる名前で商社を設立した。こうして、ボーマルシェは船や武器弾薬、義勇軍集めに奔走するなど、商人として動き始めたが、いささか派手に活動しすぎた。イギリス側が彼の動きを察知し、外務大臣ヴェルジェンヌに猛抗議してきたのである。いくら民間業者である(そのように装っているだけだが)とはいっても、外交関係があるイギリスからの猛抗議を無視できなかったフランスは、沿岸の港に船員の乗船と出港禁止を発令した。ボーマルシェの用意していた3隻の船のうち、2隻はこの命令によって足止めを食らったが、一番多く支援物資と人員を積んだ1隻は発令の直前に出港していた。ところが、この船に乗り込んだフランス義勇軍の司令官が、船の乗り心地の悪さを理由に他のフランスの港に立ち寄るように船長に求めたため、結局他の2隻と同じように足止めを食らった。この顛末を聞いたボーマルシェは激怒し、この司令官を船から降ろした上で、ヴェルジェンヌと交渉を重ねた。その結果、この3隻の船は1777年初頭、密かにアメリカ大陸へ向けて出港し、イギリスの軍艦に見つかることもなくアメリカへ無事到着した。初めての支援物資が届いたことを知ったアメリカ人たちは、熱狂したという。 ところが、ボーマルシェはミスを犯していた。武器弾薬の代わりとして大量の物産を積んで帰ってくるはずの3隻の船は、空っぽのままで帰ってきたのである。これには、ボーマルシェが関わったアメリカ人、アーサー・リー、サイラス・ディーン、アメリカ建国の父として高名なベンジャミン・フランクリンが密接に絡んでいる。 最初にボーマルシェと知り合ったのは、アーサー・リーであった。彼はヴァージニア州生まれであったが、イートン・カレッジで学び、エジンバラ大学を出たのち、ロンドン市長ウィルクスの下に出入りしていた。そこでボーマルシェと出会い、アメリカの秘密使節として彼と交渉するようになったのだ。交渉の初期段階においてボーマルシェに情報を流していたのはこの男であった。だが、いささかその性格に難があった。嫉妬深い性格で、恨みを根に持ち、猜疑心の強い男であったらしい。 1776年7月4日、独立を果たしたアメリカは、サイラス・ディーンとベンジャミン・フランクリンを代表としてパリに派遣した。遅れてリーもパリに到着したが、その頃にはすでに彼らはボーマルシェを通じてフランス政府との交渉で実績を挙げつつあった。このような状況を見て、リーは激しく焦り、嫉妬心に駆られた。1777年1月3日付のアメリカ議会へ宛てた手紙で、ボーマルシェの約束不履行をなじり、武器弾薬に見返りに何も支払う必要はないとの報告を行っていることでそれは裏付けられるだろう。だが、ボーマルシェにも非はあった。彼はリーをさほど信頼しておらず、その交渉も表面的でしかなかったと手紙に認めている。ボーマルシェが交渉相手としてサイラス・ディーンを信頼し、彼を選んだためにリーは立場を失い、ボーマルシェに恨みを抱いたのである。これだけで済めばよかったのだが、今度はサイラス・ディーンが原因になって、他にも恨みを買うことになった。ディーンがフランスに立つ際、仕事を円滑に進めるために、ベンジャミン・フランクリンはデュブール博士という男に宛てた推薦状を与えていた。デュブールという男は、フランクリンとの関係を利用してボーマルシェより前からアメリカに武器を提供していたが、彼の登場によってその商売が危うくなっていた。ディーンは、同じ商売を手掛けるボーマルシェとデュブールを天秤にかけた結果、ボーマルシェの方が交渉相手として有力であるとの判断を下した。こうしてデュブールの恨みをも買うことになったのである。この結果、ボーマルシェはフランクリンとあまり良い関係を構築できなかった。デュブールが悪評を吹き込んでいたのかもしれない。 こうして、ボーマルシェはディーンを相手に交渉を進め、1776年7月下旬には交渉をまとめた。「武器弾薬の代わりに、ヴァージニアなどの煙草を引き渡す」という内容であったが、ボーマルシェは詰めが甘かった。この交渉成立のおよそ1か月後にフィラデルフィアの議会に手紙を送っているが、良い印象を植え付けようとしたのか、アメリカ独立への熱烈な共感を強調したいあまりに、それだけが際立つ文面となってしまい、肝心の商売の話をうやむやにしてしまったのである。議会がこれを誤解したのか、つけ込んで利用したのかはわからないが、何にせよその結果は先述したとおりである。当てが外れたボーマルシェは商社の経営に行き詰ったが、幸いなことに外務大臣ヴェルジェンヌが100万リーヴルを追加融資してくれたおかげで、何とか破滅せずに済んだ。 1778年2月6日、それまで慎重な姿勢を崩さなかったフランス政府も、ボーマルシェの報告を分析したり、フランクリンなどとの交渉の進展を見て、パリにて仏米友好通商条約と仏米同盟条約を締結した。こうしてフランスとイギリスは戦争状態に突入し、ボーマルシェの商社は純粋な民間業者となった。彼は最初の失敗を教訓として、助手であったデヴノー・ド・フランシーをアメリカに送り、貿易業者としてアメリカ新政府と正式に契約を交わすに至った。1779年1月には、アメリカ議会の要請によって発せられた議長ジョン・ジェイ名義の感謝状を手に入れるほどであった。この感謝状には「これまでに合衆国支援のために被った負債の支払いを速やかに行う」と記されていたが、その負債の巨額さもあって、ボーマルシェの生前はこの通りに履行されなかった。1835年になって、ボーマルシェの相続者たちに80万フランが贈られてようやく片付いたのであった。 アメリカ独立戦争に絡むこの貿易では、巨額の負債が足を引っ張って、ほとんど利益を挙げられなかった。だが、アメリカの独立と祖国フランスの役に立ったのは間違いない。アメリカ独立戦争に関わっていたこの時期、1777年1月にマリー=テレーズ嬢との間に娘をもうけ、ユージェニーと名付けた。
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