外交顧問としてのアメリカ独立戦争とは? わかりやすく解説

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外交顧問としてのアメリカ独立戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:29 UTC 版)

カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「外交顧問としてのアメリカ独立戦争」の解説

王の密命帯びてデオン・ド・ボーモン交渉当たっていた1775年は、アメリカ独立戦争勃発した年でもあった。当時フランスは、七年戦争での敗北いまだに引きずっていた。この戦争100万人近人員失い大量領土奪われ挙句屈辱的な譲歩強いられていたためである。その結果イギリス海軍太平洋制海権掌握し、まさに世界最強として実力誇示していたのだ。 イギリス滞在していたボーマルシェは、デオンとの交渉にのみ専念していたわけではなかった。交渉に当たりつつも、イギリスの外務大臣ロシュフォード卿や、首相であるフレデリック・ノースロンドン市長ジョン・ウィルクス邸宅出入りして反乱軍共鳴する人間通じ合いアメリカ独立戦争に関する情報得ていた。その結果、この独立戦争どのようになろうがいずれにしてもフランスアメリカ極秘支援するべき」との考え達した1775年9月ごろから、ルイ16世外務大臣ヴェルジェンヌに宛ててアメリカ支援するように説得する手紙を何通も送っている。 その内容簡潔に要約すると、「フランスアメリカ支援するべきである。もし反乱軍敗北したならば、彼らはただ傍観していたフランス恨み思ってイギリス結託して攻撃してくるだろう。その結果、再び大損害を被って、ますますイギリスとの国力の差が広がることとなる。そうならいためにフランス反乱軍支援しなければならないが、正面切ってイギリスと戦う余裕はまだないから、その準備をしつつアメリカ極秘支援しなければならない。そのためにイギリス本土正確な情報獲得できる人間必要だが、その任に私よりふさわしい人間はいない。」となる。外務大臣ヴェルジェンヌもこの意見納得したようで、国王ルイ16世進言し、ボーマルシェ正式にその任に当たらせることにした。こうしてボーマルシェは、単なる王の私設外交官から、外交顧問となったのであるボーマルシェはこの任務に特に意欲的であったようで、イギリス政権与党のみならず野党など幅広い人物から情報獲得しよう努めたフランス帰国するたびに国王側近大臣情報伝え米英分断政策展開するように進言したが、いくら大臣とはいえ決裁権持たない人間相手では一向に埒が明かなかった。そのため、やがて国王直接手紙送り丁寧に、しかしけしかける様にアメリカ支援するよう提案行ったが、国王態度煮え切らなかった。だが、それも当然といえば当然であるだろう。いくら植民地側に反乱を起こす大義があったとしても、他国であるフランスがそれを公に認めて支援行えば、それはすなわちイギリスへ宣戦布告同様の意味を持つ。先述たように、この当時イギリスはまさに世界最強であったし、フランス国力弱めていたから、攻撃されればひとたまりもなかったのであるボーマルシェもこの点は承知していたようで、1776年2月29日の手紙ではイギリス情勢紹介し反乱軍フランスの支援がないことに絶望しかかっていると様子伝えた上で火中たるアメリカ支援任務自分引き受けることを主張した。 こうして、正式にアメリカ支援の任務に当たることになったボーマルシェであったが、やはり慎重な姿勢崩さないフランス政府条件付けてきた。アメリカ反乱軍支援はしたいが、イギリス刺激するのは国家存亡関わる。そのため政府としての支援ではなく単なる個人的投機として誰の目にも映るようにしてもらいたい、というのがその条件であった。そのための方法詳しく指定されており、それによればブルボン王家親しく利害関係のあるスペイン王家とフランス政府からの200リーヴルと、それに民間から出資者募って集めた資金を基に商社設立しアメリカ反乱軍必要な武器弾薬などを提供するフランス政府武器調達して商社売り渡すが、反乱軍には金ではなく、物を要求しなければならない。」というものだった1775年9月6日高等法院判決によってボーマルシェ正式に社会的復権果たした商社設立のための障壁は完全に取り除かれたが、その設立のために必要な民間出資者がなかなか集まらなかった。それでもなんとか資金集め同年10月に「ロドリーグ・オルタレス商会」なる名前で商社設立した。こうして、ボーマルシェは船や武器弾薬義勇軍集め奔走するなど、商人として動き始めたが、いささか派手に活動しすぎた。イギリス側彼の動き察知し外務大臣ヴェルジェンヌに猛抗議してきたのである。いくら民間業者である(そのように装っているだけだが)とはいっても、外交関係があるイギリスからの猛抗議無視できなかったフランスは、沿岸の港に船員乗船出港禁止発令したボーマルシェ用意していた3隻の船のうち、2隻はこの命令によって足止め食らったが、一番多く支援物資人員積んだ1隻は発令直前出港していた。ところが、この船に乗り込んだフランス義勇軍司令官が、船の乗り心地悪さ理由に他のフランスの港立ち寄るように船長求めたため、結局他の2隻と同じよう足止め食らった。この顛末聞いたボーマルシェ激怒し、この司令官を船から降ろした上で、ヴェルジェンヌと交渉重ねたその結果、この3隻の船は1777年初頭密かにアメリカ大陸向けて出港しイギリスの軍艦に見つかることもなくアメリカへ無事到着した初めての支援物資届いたことを知ったアメリカ人たちは、熱狂したという。 ところが、ボーマルシェミス犯していた。武器弾薬代わりとして大量物産積んで帰ってくるはずの3隻の船は、空っぽのままで帰ってきたのである。これには、ボーマルシェが関わったアメリカ人、アーサー・リー、サイラス・ディーンアメリカ建国の父として高名なベンジャミン・フランクリンが密接に絡んでいる。 最初にボーマルシェ知り合ったのは、アーサー・リーであった。彼はヴァージニア州生まれであったが、イートン・カレッジ学びエジンバラ大学出たのち、ロンドン市長ウィルクスの下に出入りしていた。そこでボーマルシェ出会いアメリカ秘密使節として彼と交渉するようになったのだ。交渉初期段階においてボーマルシェ情報流していたのはこの男であった。だが、いささかその性格に難があった。嫉妬深い性格で、恨みを根に持ち猜疑心の強い男であったらしい。 1776年7月4日独立果たしたアメリカは、サイラス・ディーンベンジャミン・フランクリン代表としてパリ派遣した遅れてリーパリ到着したが、その頃にはすでに彼らはボーマルシェ通じてフランス政府との交渉実績挙げつつあった。このような状況見てリー激しく焦り嫉妬心駆られた1777年1月3日付のアメリカ議会宛てた手紙で、ボーマルシェ約束不履行をなじり、武器弾薬見返りに何も支払う必要はないとの報告行っていることでそれは裏付けられるだろう。だが、ボーマルシェにも非はあった。彼はリーをさほど信頼しておらず、その交渉表面的でしかなかったと手紙認めている。ボーマルシェ交渉相手としてサイラス・ディーン信頼し、彼を選んだためにリー立場失いボーマルシェ恨み抱いたのであるこれだけで済めばよかったのだが、今度サイラス・ディーン原因になって、他にも恨みを買うことになったディーンフランスに立つ際、仕事円滑に進めるために、ベンジャミン・フランクリンはデュブール博士という男に宛てた推薦状与えていた。デュブールという男は、フランクリンとの関係を利用してボーマルシェより前からアメリカ武器提供していたが、彼の登場によってその商売危うくなっていた。ディーンは、同じ商売手掛けるボーマルシェとデュブールを天秤にかけた結果ボーマルシェの方が交渉相手として有力であるとの判断下した。こうしてデュブールの恨みをも買うことになったのである。この結果ボーマルシェフランクリンとあまり良い関係を構築できなかった。デュブールが悪評吹き込んでいたのかもしれない。 こうして、ボーマルシェディーン相手交渉進め1776年7月下旬には交渉をまとめた。「武器弾薬代わりにヴァージニアなどの煙草引き渡す」という内容であったが、ボーマルシェ詰め甘かった。この交渉成立のおよそ1か月後にフィラデルフィア議会手紙送っているが、良い印象植え付けようとしたのか、アメリカ独立への熱烈な共感強調したいあまりにそれだけ際立つ文面となってしまい、肝心商売の話をうやむやにしてしまったのである議会がこれを誤解したのか、つけ込んで利用したのかはわからないが、何にせよその結果先述したとおりである。当て外れたボーマルシェ商社経営行き詰ったが、幸いなことに外務大臣ヴェルジェンヌが100万リーヴル追加融資してくれたおかげで、何とか破滅せずに済んだ1778年2月6日それまで慎重な姿勢を崩さなかったフランス政府も、ボーマルシェ報告分析したり、フランクリンなどとの交渉進展見てパリにて仏米友好通商条約仏米同盟条約締結した。こうしてフランスイギリス戦争状態に突入しボーマルシェ商社純粋な民間業者となった。彼は最初失敗教訓として、助手であったデヴノー・ド・フランシーをアメリカ送り貿易業者としてアメリカ新政府正式に契約を交わすに至った1779年1月には、アメリカ議会要請によって発せられた議長ジョン・ジェイ名義感謝状手に入れるほどであった。この感謝状には「これまで合衆国支援のために被った負債支払い速やかに行う」と記されていたが、その負債巨額さもあって、ボーマルシェ生前はこの通り履行されなかった。1835年になってボーマルシェ相続者たち80フラン贈られてようやく片付いたであったアメリカ独立戦争に絡むこの貿易では、巨額負債足を引っ張って、ほとんど利益挙げられなかった。だが、アメリカの独立祖国フランス役に立ったのは間違いないアメリカ独立戦争に関わっていたこの時期1777年1月マリー=テレーズ嬢との間に娘をもうけ、ユージェニー名付けた

※この「外交顧問としてのアメリカ独立戦争」の解説は、「カロン・ド・ボーマルシェ」の解説の一部です。
「外交顧問としてのアメリカ独立戦争」を含む「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事については、「カロン・ド・ボーマルシェ」の概要を参照ください。

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