国鉄新線としての建設
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「北越急行ほくほく線」の記事における「国鉄新線としての建設」の解説
1964年(昭和39年)9月28日に運輸大臣が定めた基本計画では、北越北線は起点を直江津市、終点を南魚沼郡六日町とし、単線非電化で、線路等級は乙線とされていた。これを基に工事実施計画の指示が行われた。設計にあたっては、日本有数の豪雪地帯を通ることから雪崩や地すべりの起こらないような場所を選んでルートの設定を行い、将来的に貨物列車や急行列車の運行を行う優等線とすることを考えて勾配や曲線を少なくするようにした。 公団の発足当時、工事線に指定されていた路線は全国で47路線あり、その総延長は約2,000キロメートル、総工費は約2000億円とされ、年間約100億円程度の公団の予算では実現にかなりの時間がかかるのは確実な状況であった。北越北線も、鉄道建設審議会で「速やかに着工」という意見が添えられた路線に含まれていなかった。しかし当時の地元国会議員らの熱心な取り組みもあって、比較的早く着工に漕ぎ着けることができた。 まず六日町 - 十日町間について、1968年(昭和43年)3月28日に工事実施計画が認可され、8月14日に着工となった。この区間を先に着工したのは、松代と浦川原の間でのルートの決着が付いていなかったためである。基本計画とは逆に起点は六日町、終点は十日町で、途中停車場は西六日町(魚沼丘陵駅)、赤倉信号場、津池(美佐島駅)と仮称されていた(カッコ内は開業時の駅名)。最小曲線半径は400メートル、最急勾配は14パーミル、1メートルあたりの重量が40キログラム(kg)である40 kgレールを使用し、橋梁の設計活荷重はKS-16、概算工事費は50億1800万円とされた。 続いて1972年(昭和47年)10月11日に十日町 - 犀潟間の工事実施計画が認可され、1973年(昭和48年)3月24日に着工された。この区間の途中停車場は薬師峠信号場、松代(まつだい駅)、儀明信号場、頸城大島(ほくほく大島駅)、沢田(虫川大杉駅)、増田(くびき駅)と仮称されていた(カッコ内は開業時の駅名)。最小曲線半径は1,000メートル、最急勾配は14パーミル、40 kgレールを使うが長大トンネル内は50 kgレールとし、橋梁の設計活荷重はKS-16、概算工事費は239億3400万円となった。1979年度完成を予定していた。 停車場の配線についても貨物列車の運行を前提とした計画になっており、単式ホームとされた西六日町、津池の両停車場以外のすべての停車場で列車交換が可能で、貨物列車相互の行き違いを想定してすべての交換可能駅で1,000トン貨物列車に対応した有効長460メートルを確保していた。在来線併設の六日町、十日町、犀潟を除くすべての停車場に、上下線とも安全側線を設置して、上下列車の待避線への同時進入を可能とすることになっていた。六日町、十日町、松代の各停車場については、機関車牽引の10両編成を想定してプラットホームの有効長を240メートルとし、これ以外の停車場については電車列車の6両編成を想定した140メートルとしていた。 その後、国鉄新潟鉄道管理局からの防雪設備の完備や保守の軽減化への要望があり、さらに運輸省の通達で工事実施計画に含めるべき事項が加えられたこともあり、1978年(昭和53年)7月20日に工事実施計画が変更された。これにより十日町 - 犀潟間の工事実施計画について、犀潟駅への取り付けの変更が行われ、最小曲線半径が1,000メートルから600メートルとなり、50 kgレールの使用とスラブ軌道の採用、電化対応設備を設けることが記載された。十日町 - 犀潟間の工事予算は511億8600万円に改定され、完成予定期日は1983年(昭和58年)に延長されることになった。 この頃、全国新幹線鉄道整備法により全国的な新幹線ネットワークの整備計画が進められており、東京と北陸地方を結ぶ新幹線として北陸新幹線の基本計画が1972年(昭和47年)に制定されていた。北陸新幹線は北越北線と重複する高速鉄道計画となったが、高度経済成長の時期でもありそれほど問題視はされず、また北陸新幹線が旅客輸送、北越北線が貨物輸送と役割分担することも考えられていた。しかし1973年(昭和48年)に第一次オイルショックに見舞われると、北陸新幹線の建設は延期されることになった。 北越北線はその間も工事が続けられていたが、全国各地にある鉄道新線のうちの1か所として配分される建設予算に限りがあったことや、トンネル工事が難航していたことで建設工事が遅れていた。そうしているうちに国鉄の経営悪化が進み、その対策として1980年(昭和55年)に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)の施行により鉄道新線の工事は凍結されることになった。国鉄再建法での工事続行基準は、推定輸送密度が4,000人/日以上とされていたが、北越北線の推定輸送密度は1,600人/日であった。この時点で用地取得は73パーセント、路盤工事は58パーセントまで進捗しており、工事費はこの時点での総額見込み794億円に対して415億円が投じられていたが、1982年(昭和57年)3月に完成済み施設に対する保安工事が完了すると、建設工事は全面ストップした。
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