国鉄新線としての建設とは? わかりやすく解説

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国鉄新線としての建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:52 UTC 版)

北越急行ほくほく線」の記事における「国鉄新線としての建設」の解説

1964年昭和39年9月28日運輸大臣定めた基本計画では、北越北線起点直江津市終点南魚沼郡六日町とし、単線非電化で、線路等級乙線とされていた。これを基に工事実施計画指示が行われた。設計にあたっては、日本有数豪雪地帯を通ることから雪崩地すべり起こらないような場所を選んでルート設定行い将来的貨物列車急行列車運行を行う優等線とすることを考えて勾配曲線少なくするようにした。 公団発足当時工事線に指定されていた路線全国47路線あり、その総延長は約2,000キロメートル総工費は約2000億円とされ、年間100億円程度公団予算では実現かなりの時間がかかるのは確実な状況であった北越北線も、鉄道建設審議会で「速やかに着工」という意見添えられ路線含まれていなかった。しかし当時地元国会議員らの熱心な取り組みもあって、比較早く着工漕ぎ着けることができた。 まず六日町 - 十日町間について、1968年昭和43年3月28日工事実施計画認可され8月14日着工となった。この区間先に着工したのは、松代浦川原の間でのルート決着付いていなかったためである。基本計画とは逆に起点六日町終点十日町で、途中停車場は西六日町魚沼丘陵駅)、赤倉信号場津池美佐島駅)と仮称されていた(カッコ内は開業時駅名)。最小曲線半径400メートル、最急勾配14パーミル、1メートルあたりの重量40キログラムkg)である40 kgレール使用し橋梁設計活荷重はKS-16、概算工事費501800万円とされた。 続いて1972年昭和47年10月11日十日町 - 犀潟間の工事実施計画認可され1973年昭和48年3月24日着工された。この区間途中停車場薬師峠信号場松代まつだい駅)、儀明信号場頸城大島ほくほく大島駅)、沢田虫川大杉駅)、増田くびき駅)と仮称されていた(カッコ内は開業時駅名)。最小曲線半径は1,000メートル、最急勾配14パーミル40 kgレールを使うが長大トンネル内は50 kgレールとし、橋梁設計活荷重はKS-16、概算工事費239億3400万円となった1979年度完成予定していた。 停車場配線についても貨物列車運行前提とした計画になっており、単式ホームとされた西六日町津池の両停車場以外のすべての停車場列車交換が可能で、貨物列車相互行き違い想定してすべての交換可能駅で1,000トン貨物列車対応した有効長460メートル確保していた。在来線併設六日町十日町犀潟を除くすべて停車場に、上下線とも安全側線設置して上下列車待避線への同時進入を可能とすることになっていた。六日町十日町松代各停車場については、機関車牽引10両編成想定してプラットホーム有効長240メートルとし、これ以外の停車場については電車列車6両編成想定した140メートルとしていた。 その後国鉄新潟鉄道管理局からの防雪設備完備保守軽減化への要望があり、さらに運輸省通達工事実施計画含めるべき事項加えられたこともあり、1978年昭和53年7月20日工事実施計画変更された。これにより十日町 - 犀潟間の工事実施計画について、犀潟駅への取り付け変更が行われ、最小曲線半径が1,000メートルから600メートルとなり、50 kgレール使用スラブ軌道採用電化対応設備設けることが記載された。十日町 - 犀潟間の工事予算511億8600万円改定され完成予定期日1983年昭和58年)に延長されることになったこの頃全国新幹線鉄道整備法により全国的な新幹線ネットワーク整備計画進められており、東京北陸地方を結ぶ新幹線として北陸新幹線基本計画1972年昭和47年)に制定されていた。北陸新幹線北越北線重複する高速鉄道計画となったが、高度経済成長時期でもありそれほど問題視はされず、また北陸新幹線旅客輸送北越北線貨物輸送役割分担することも考えられていた。しかし1973年昭和48年)に第一次オイルショック見舞われると、北陸新幹線建設延期されることになった北越北線その間工事続けられていたが、全国各地にある鉄道新線のうちの1か所として配分される建設予算限りがあったことや、トンネル工事難航していたことで建設工事遅れていた。そうしているうちに国鉄経営悪化進み、その対策として1980年昭和55年)に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法国鉄再建法)の施行により鉄道新線工事凍結されることになった国鉄再建法での工事続行基準は、推定輸送密度が4,000人/日以上とされていたが、北越北線推定輸送密度は1,600人/日であった。この時点用地取得73パーセント路盤工事58パーセントまで進捗しており、工事費はこの時点での総額見込み794億円に対して415億円が投じられていたが、1982年昭和57年3月完成済み施設対す保安工事完了すると、建設工事全面ストップした

※この「国鉄新線としての建設」の解説は、「北越急行ほくほく線」の解説の一部です。
「国鉄新線としての建設」を含む「北越急行ほくほく線」の記事については、「北越急行ほくほく線」の概要を参照ください。

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