古代イスラエルの歴史とは? わかりやすく解説

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古代イスラエルの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 16:36 UTC 版)

イスラエルの失われた10支族」の記事における「古代イスラエルの歴史」の解説

『聖書』によると、族長アブラハム紀元前17世紀?)がメソポタミアウルの地からカナンの地目指し出発したことによりイスラエルの歴史がはじまる。孫のヤコブヤアコブ)の時代エジプト移住するが、子孫はやがてエジプト人の奴隷となる。奴隷時代400年続いた後にモーセモーゼ)が諸部族エジプトから連れ出し紀元前13世紀?)、シナイ半島40年放浪し定住始めた200年程かけて一帯征服して行く。 ダビデ王紀元前1004年?‐紀元前965年?)の時代統一イスラエル王国として12部族がひとつにされる。次のソロモン王紀元前965年?‐紀元前930年?)は、安定した政治基盤背景強権的となり、『列王記』や『歴代誌』によると彼の代で厳し苦役や重いくびきが強いられたとされるソロモン死後息子レハブアム王位についたとき、民はそれらの軽減訴えたところレハブアム断り、さらに厳しくすると答えたため北部部族離反しエジプト追放されていたソロモン家来ヤロブアム呼び戻して王とし、元の王国名を引き継いだ北王国(イスラエル)を立てシェケム再興して都とした。都は後にシェケムからティルツァ、サマリア移り変わった。 これによってイスラエル北王国と、王を輩出してきたユダ族ならびにダビデ王権樹立協力したベニヤミン族南王国(ユダ王国)に分裂した北王国では南中部ベテル最北部のダンに、金の子牛の像をおいて王国祭祀拠り所としていたとされる。これは子牛崇拝したではなくエロヒムヤハウェ)の台座として置かれたものであるとされる一方、南のユダ王国の都は旧王国の都だったエルサレムにあった当時イスラエル民族は、現在のユダヤのような一神教宗教奉じていなかった。ソロモン王も特に晩年になるほど、『列王記上114-8 にあるアスタルテ、ミルコム、ケモシュ、モロクなどへの信仰顕わにしたとされている(ただし、列王記にはダビデは熱心な一神教崇拝だったとある)。学問的に北王国のエロヒム信仰のみならず、エルサレムヤハウェ信仰多神教一種拝一神教単一神教)だったと考えられている。 北王国は紀元前722年に同じセム語民族であるアッシリアにより滅ぼされ10部族のうち指導者層は虜囚としてアッシリア連行された(アッシリア捕囚)。サルゴン王の碑文によると虜囚の数は27290人で、北王滅亡直前段階北王国の全人口の20分の1程度推定されているが、その行方文書残されていないため、南王国の2支族によって「失われた10支族」と呼ばれた広義には捕囚とならなかった北王国の住民含んでいう場合がある。 捕囚とならなかった旧北王国の住民は、統制失って他の周辺諸民族中に埋没し次第10部族としてのアイデンティティ失ったといわれ、周辺異民族や、アッシリアによって他地域から逆に北王国に強制移住させられてきた異民族通婚混血することもあった。サマリアにはゲリジム山中心に後世独自に発達したユダヤ教一部祭祀同じくする古来信仰残存しサマリア人としてユダヤ人異な文化アイデンティティー保ち続け、現在に至っている。 南王国のユダは、紀元前586年セム語民族新バビロニア滅ぼされた。指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となったが(バビロン捕囚)、宗教的な繋がり強め失ったエルサレムの町と神殿代わりに律法を心のよりどころとし、宗教的文化的なアイデンティティ確保するために異民族との通婚を嫌う声も強くなり、異民族結婚したものをユダヤ人コミュニティから排除する排他的な純血至上主義信奉されるようになった。 彼らは新バビロニア滅ぼしたイラン語民族アケメネス朝ペルシアによって解放されイスラエル帰還した解放後ユダヤ人解放者であるペルシア帝国良好な関係を継続しエルサレム神殿復興された。ペルシア人はその支配下にあるすべての民族宗教平等に扱ったため、同様の恩恵サマリア人受けていたと考えられるが、ユダヤ人はその純血主義によってサマリヤ人異民族との混血蔑み北王国の末裔認めず祭祀異にする点からも異教徒として扱う等、南北王国時代対立民族的偏見として引き継ぐとなったペルシア帝国アレクサンダー大王によって滅ぼされヘレニズム時代開幕すると、ユダヤ人アレクサンダー大王その後継者であるギリシア人政権激しく対立していった様子旧約聖書外典にみえるバビロン捕囚時代ペルシア時代ヘレニズム時代3つの時代を通じてユダヤ民族としての独自性を保つための基礎作られ宗教としてのユダヤ教確立したハスモン朝時代にかけてはローマ同盟結んだこともあり、ユダ王国領土拡大しエドム地方なども含まれるようになり、制圧地域エドム人ユダヤ教布教が行われてユダヤ人同化され、後にそこからヘロデ大王ユダヤの王の座に就くほどまでになったが、彼の死後王位後継者定まらず一度息子達によって分割統治するも、サマリア・ユダヤ・イドメア地区では領主のヘロデ・アルケオラスが統治失敗しローマ帝国直轄支配によるユダヤ属州置かれた。「ユダヤ」の名はユダ綴りは英語などではJudaだがラテン語ではIuda)にラテン語の地名としての語尾変化ea」がつき「ユダエア(Iudaea)」となったもの、同様にエドムEdom)→イドメア(Edomea)」となった研究者なかには2世紀初頭バル・コクバの乱ローマ帝国によってパレスチナからユダヤ色が一掃された後も、サマリヤ人大部分ユダヤ人一部はこの地に残り、のちにイスラム教改宗し現在のパレスチナ人遠祖となった指摘するものがある。一方いわゆるシオニズム支持する学者一部は、こうした指摘否定している。ユダヤ人はのちに商人的な性格強くし、商業営みつつ世界広がっていくことになる。

※この「古代イスラエルの歴史」の解説は、「イスラエルの失われた10支族」の解説の一部です。
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