古代アルモリカ
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古代ギリシャの地理学者ポセイドニオスとストラボンは、アルモリカニ(Armoricani、アルモリカの民)が、ゲルマン人のベルガエ侵入によって移住を余儀なくされた、ベルガエのガリア人に起源を持つ人々だと記している。 大プリニウスは『博物誌』のなかで、「アルモリカはアクイタニアの古い名であり、アルモリカの南の境界はピレネー山脈まで伸びている」と主張している。名称がガリア語源であることを考慮すると、Aremoricaは国名ではなく一種の地理的地域、海に囲まれた地方であることについて説明した名であるので、完全に正しく論理的である。大プリニウスは、アルモリカに定住していた以下のケルト部族を一覧表示していた。ローマと条約を結んだアエドゥイ族、カルヌテニ族、いくらかの独立を維持するメルディ族、セクシアニ族、他にボイイ族、セノネス族、アウレルキ族、パリシイ族、トリカセス族、アンディカウィ族、ウィドゥカセス族、ボディオカセス族、ウェネティ族、コリオソリテス族(en)、ディアブリンティ族、レドネス族(fr)、トゥロネス族、アトセウイ族である。 ガリア時代のアルモリカは、ガリアの部族による広範囲の連合体を形成していた。連合体は歴史的なブルターニュとみなされる現在の5県(フィニステール県、モルビアン県、コート=ダルモール県、イル=エ=ヴィレーヌ県、ロワール=アトランティック県)、ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏の北西部分(マイエンヌ県、サルト県、アンジュー)、現代のノルマンディーのほぼ全土(マンシュ県、カルヴァドス県、ウール県、そしてセーヌ=マリティーム県の一部)、そしてソンム川までの近隣地方が含まれていた。カエサルはそこに住む人々の一部がベルガエであることに言及している。ベルガエとはすなわちセーヌ川の北側を指している。川は歴史的に北のガリア・ベルギカとガリア・コマータ(fr、長髭のガリア。ローマがまだ征服していないガリアを指す)とを分断するとみなされてきたからである。 このアルモリカ連合体の境界は厳密に定義されていない。異なる仮説を他の著者たちは提案している。 一部は、アルモリカがセーヌ川河口からジロンド川河口までの範囲であるとする。なぜならばトラクトゥス・アルモリカヌス・エト・ネルウィカヌス(Tractus Armoricanus et Nervicanus)という軍監視当局が正式に設置されていた時代である380年当時、ローマの県アルモリカはジロンド川入り江まで拡張していたのである。 他の説には、ブルターニュはマンシュ県やカルヴァドス県にまで領域が減少していたというものがある。 近年こうした地形による区別は受け入れられないものとなっている。第一に、ウェネティ族の敵であった、ポワトゥーのピクトン族、サントンジュのサントン族はアルモリカ先住民とみなされたことがない。第二に、コー地方にいたカレテス族はアルモリカ先住民とみなされていたことが知られるようになったからである。 アルモリカの西部には、マッシリアのピテアスがOstimioiと記した、オシスミ族(en)が定住していた。この名前は「この世で最も偉大な者」、「世界の果ての者」を意味している。アルモリカ南部には、ガイウス・ユリウス・カエサルにその強力さを印象付けたウェネティ族がいた。ウェネティ族の人々は、商人や、強力な組織を持つ船乗りたちだった。また、彼らは長老で構成される元老院を持っていた。彼らはさらに、アルモリカの富を示す大艦隊を持っていた。彼らはブリテン諸島からイタリアまで貿易をし、商品を広めた。真珠(ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス、カエサルが言及している)、シトゥラ(Situla)、青銅製の壷、ワイン壷、神々の彫像、宝石や豪華な装身具、そして武器であった。ワインやオリーブオイルで満たされたアンフォラを伴うこうした商品は、オスティア、ポッツォーリ、アンセドニア(現在はオルベテッロの分離集落)で船に積まれ、船でナルボンヌへ輸送された。彼らはローラゲ地方を入り口としてトゥールーズ、最後にボルドーへ陸路で到達し、大西洋岸に出て儲けた。ローヌ川谷、ロワール川谷へと続く別の交易路が存在したことが判明している。 ボルドーとナントから船はカボタージュ船団となって沿岸沿いにヴァンヌへ、サン・マロ地域に到達するまで広大な半島に品物を供給するためその他の全ての港に立ち寄った。この港からの物資はブリテン諸島南岸に運ばれていった。特に、現在のドーセットシャー・ボーンマス近くのヘンゲストベリー・ヘッド(en)にあったエンポリウムである。そこではローマ時代のワインが入っていたアンフォラの多数の破片、オシスミ族やコリオソリテス族のセラミック、アルモリカの大きな半島で作られた多くの硬貨(ほとんどがコリオソリテス族のもの)が見つかっている。コーンウォールとブルターニュ半島のこうした「有史以前」のつながりは、中世まで続くつながりの土台となった。さらに遠く東のブリテン島沿岸での、典型的な大陸とのつながりは、アルモリカとではなく、セーヌ川下流の渓谷地帯とのものだった。 シケリアのディオドロスによって記述がされ、大プリニウスがほのめかした、アルモリカとブリテン島の間の貿易は古くに確立されていた。なぜなら紀元前57年のプブリウス・リキニウス・クラッススの遠征後、アルモリカでのローマ支配に対して抵抗運動は続き、依然としてブリテン島のケルト貴族が抵抗を支援していたのである。それに対してカエサルは紀元前55年と紀元前54年の2度、ブリテン島に侵攻した。アルモリカとブリタンニアエをつなぐ複雑にからみあった文化網のヒントは、カエサルがスエシオネス族の王ディウィシアクス(en)について、「彼は全ガリアで最も強力な支配者であるだけでなく、この地域の広大な一帯はおろかブリテン島までも支配下においていた」と、記述したときに与えられた。 ウェネティ族を通じて、アルモリカの半島はローマ人にイタリアのスズやブリテン諸島の銅、琥珀、奴隷、狩猟犬、鉛、塩、革、金やその他の商品を売っていた。塩漬け肉やアルモリカの食肉加工品は既によく知られており、ローマで食されていた。 ウェネティ族は現在のモルビアン湾岸に住み、ヴァンヌ(Vannes)という地名の語源となった。興味深いことに、北イタリアに定住し6世紀には異なる強力な海洋都市国家ヴェネツィア共和国をつくったウェネティ族(en)と同じ名である。 ウェネティ族が暮らす土地の南側、ロワール川河口地帯にはナムネテス族(fr)がいた。彼らの名はナントの語源である。ナムネテス族の名はストラボンとプトレマイオスからサムニテス族(fr)と呼ばれている。 現在のブルターニュ半島北部と東部には、コリオソリテス族(ラテン語ではCoriosolitae)がいた。Corioとは「戦士」を意味する。彼らは現在のコート=ダルモール県に暮らし、その中心地はアルウィイ(Arvii。ラテン語ではFanum Martis、現在のコルスール)といった。レドネス族は現在のイル=エ=ヴィレーヌ県にいた。彼らの名はレンヌやルドンの語源となっている。 紀元前57年、カエサルは他のガリア族から提供された船を採用してモルビアン湾の海戦においてウェネティ族艦隊を撃破した。戦い後、ウェネティ族の長老たちは殺害され、残った者たちは奴隷として売られたとカエサルは報告している。 考古学は、考古学者および貨幣学者フィリップ・ドゥ・ジャージー(en)が調査してきた、鉄器時代アルモリカの貨幣鋳造をまだ明らかにしていない。
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