古代アルモリカとは? わかりやすく解説

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古代アルモリカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 14:42 UTC 版)

アルモリカ」の記事における「古代アルモリカ」の解説

古代ギリシャ地理学者ポセイドニオスストラボンは、アルモリカニ(Armoricani、アルモリカの民)が、ゲルマン人ベルガエ侵入によって移住余儀なくされた、ベルガエガリア人起源を持つ人々だと記している。 大プリニウスは『博物誌』のなかで、「アルモリカアクイタニアの古い名であり、アルモリカの南の境界ピレネー山脈まで伸びている」と主張している。名称がガリア語源であることを考慮すると、Aremoricaは国名ではなく一種地理的地域、海に囲まれ地方であることについて説明した名であるので、完全に正しく論理的である。大プリニウスは、アルモリカ定住していた以下のケルト部族一覧表示していた。ローマ条約結んだアエドゥイ族、カルヌテニ族、いくらか独立維持するメルディ族、セクシアニ族、他にボイイ族、セノネス族、アウレルキ族、パリシイ族、トリカセス族、アンディカウィ族、ウィドゥカセス族、ボディオカセス族、ウェネティ族、コリオソリテス族(en)、ディアブリンティ族、レドネス族(fr)、トゥロネス族、アトセウイ族である。 ガリア時代アルモリカは、ガリア部族による広範囲連合体形成していた。連合体歴史的なブルターニュみなされる現在の5県(フィニステール県モルビアン県コート=ダルモール県イル=エ=ヴィレーヌ県ロワール=アトランティック県)、ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏北西部分(マイエンヌ県サルト県アンジュー)、現代ノルマンディーのほぼ全土マンシュ県カルヴァドス県ウール県、そしてセーヌ=マリティーム県一部)、そしてソンム川までの近隣地方が含まれていた。カエサルはそこに住む人々一部ベルガエであることに言及している。ベルガエとはすなわちセーヌ川北側指している。川は歴史的に北のガリア・ベルギカとガリア・コマータ(fr、長髭のガリアローマがまだ征服していないガリアを指す)とを分断するみなされてきたからである。 このアルモリカ連合体境界厳密に定義されていない異な仮説を他の著者たちは提案している。 一部は、アルモリカセーヌ川河口からジロンド川河口までの範囲であるとする。なぜならばトラクトゥス・アルモリカヌス・エト・ネルウィカヌス(Tractus Armoricanus et Nervicanus)という軍監当局正式に設置されていた時代である380年当時ローマの県アルモリカジロンド川入り江まで拡張していたのである他の説には、ブルターニュマンシュ県カルヴァドス県にまで領域減少していたというものがある。 近年こうした地形による区別受け入れられないものとなっている。第一にウェネティ族の敵であったポワトゥーピクトン族、サントンジュのサントン族はアルモリカ先住民みなされたことがない第二に、コー地方にいたカレテス族はアルモリカ先住民みなされていたことが知られるようになったからである。 アルモリカ西部には、マッシリアのピテアスがOstimioiと記した、オシスミ族(en)が定住していた。この名前は「この世で最も偉大な者」、「世界の果ての者」を意味している。アルモリカ南部には、ガイウス・ユリウス・カエサルにその強力さを印象付けたウェネティ族がいた。ウェネティ族人々は、商人や、強力な組織を持つ船乗りたちだった。また、彼らは長老構成される元老院持っていた。彼らはさらに、アルモリカの富を示す大艦隊を持っていた。彼らはブリテン諸島からイタリアまで貿易をし、商品広めた真珠ガイウス・スエトニウス・トランクィッルスカエサル言及している)、シトゥラ(Situla)、青銅製の壷、ワイン壷、神々彫像宝石豪華な装身具、そして武器であったワインオリーブオイル満たされアンフォラを伴うこうした商品は、オスティアポッツォーリ、アンセドニア(現在はオルベテッロ分離集落)で船に積まれ、船でナルボンヌ輸送された。彼らはローラゲ地方入り口としてトゥールーズ最後にボルドー陸路到達し大西洋岸出て儲けたローヌ川谷、ロワール川谷へと続く別の交易路存在したことが判明している。 ボルドーナントから船はカボタージュ船団となって沿岸沿いにヴァンヌへ、サン・マロ地域到達するまで広大な半島品物供給するためその他の全ての港に立ち寄った。この港からの物資ブリテン諸島南岸運ばれていった。特に、現在のドーセットシャー・ボーンマス近くのヘンゲストベリー・ヘッド(enにあったエンポリウムである。そこではローマ時代ワイン入っていたアンフォラ多数破片、オシスミ族やコリオソリテス族のセラミックアルモリカ大きな半島作られ多く硬貨(ほとんどがコリオソリテス族のもの)が見つかっている。コーンウォールブルターニュ半島こうした有史以前」のつながりは、中世まで続くつながり土台となった。さらに遠く東のブリテン島沿岸での、典型的な大陸とのつながりは、アルモリカではなくセーヌ川下流渓谷地帯とのものだったシケリアのディオドロスによって記述がされ、大プリニウスほのめかしたアルモリカブリテン島の間の貿易古く確立されていた。なぜなら紀元前57年プブリウス・リキニウス・クラッスス遠征後、アルモリカでのローマ支配に対して抵抗運動続き依然としてブリテン島ケルト貴族抵抗支援していたのである。それに対してカエサル紀元前55年紀元前54年2度ブリテン島侵攻したアルモリカとブリタンニアエをつなぐ複雑にからみあった文化網のヒントは、カエサルがスエシオネス族の王ディウィシアクス(en)について、「彼は全ガリアで最も強力な支配者であるだけでなく、この地域広大な一帯はおろかブリテン島までも支配下においていた」と、記述したときに与えられた。 ウェネティ族通じてアルモリカ半島ローマ人イタリアスズブリテン諸島琥珀奴隷狩猟犬、鉛、塩、革、金やその他の商品売っていた。塩漬け肉やアルモリカ食肉加工品は既によく知られており、ローマで食されていた。 ウェネティ族現在のモルビアン湾岸に住みヴァンヌVannes)という地名の語源となった興味深いことに、北イタリア定住し6世紀には異な強力な海洋都市国家ヴェネツィア共和国つくったウェネティ族en)と同じ名である。 ウェネティ族が暮らす土地南側ロワール川河口地帯にはナムネテス族(fr)がいた。彼らの名はナント語源である。ナムネテス族の名はストラボンプトレマイオスからサムニテス族(fr)と呼ばれている。 現在のブルターニュ半島北部東部には、コリオソリテス族(ラテン語ではCoriosolitae)がいた。Corioとは「戦士」を意味する。彼らは現在のコート=ダルモール県暮らし、その中心地はアルウィイ(Arvii。ラテン語ではFanum Martis現在のコルスール)といった。レドネス族は現在のイル=エ=ヴィレーヌ県にいた。彼らの名はレンヌルドン語源となっている。 紀元前57年カエサルは他のガリア族から提供された船を採用してモルビアン湾の海戦においてウェネティ族艦隊撃破した戦い後、ウェネティ族長老たち殺害され残った者たちは奴隷として売られたとカエサル報告している。 考古学は、考古学者および貨幣学者フィリップ・ドゥ・ジャージー(en)が調査してきた、鉄器時代アルモリカ貨幣鋳造をまだ明らかにていない

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