主要家臣の持高
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「主要家臣の持高」の解説
小諸家臣の持高には、給人地分が含まれておらず、連綿する家の格式が同じ家臣であっても、持高には、差が設けられており、同じ家柄であっても、さらに持高によって序列が細分化されていた。 家禄から持高を抽出して、別途記載がある分限帳は、6代藩主康長の治世期(1800年〜1819年)である文化年間に登場する。持高のみを表記した分限帳は文化年間以前のものも存在する。 6代藩主康長の治世に成立したとみられる小諸惣士草高割には、ほぼすべての家臣の持高と足高が掲載されている。史料を基礎にわかりやすく調整すると、次のようになる。 持高200石以上の家臣は、6家(牧野八郎左衛門家の分家である牧野勝兵衛家307石・槇227石・木俣227石・河合200石・太田200石・牧野八郎左衛門家200石)があった。これらは、あくまで持高の数字であるため、給人地分込みで考えると、牧野勝兵衛家のみが実質378石で、四捨五入すれば400石級といえる家臣であり、槇・木俣・河合・太田・牧野(八郎左衛門家)は300石級家臣であった。小諸入封後に、給人地分込みで400石以上で遇された家老連綿3家の真木・牧野(八郎左衛門家)・加藤は、このとき400級家臣とは言えなくなっていた。 持高100石以上200石未満の家臣は、13家(鳥居・加藤・本間・倉地・村井・槇分家2家・木俣分家・藩主牧野の分家である牧野求馬家・笠間・神戸・稲垣・古畑)があった。これらの諸士は、おおむね250石未満から、150石以上の200石級家臣といえる。 首席家老を勤めたこともある稲垣(稲垣源太左衛門家)は、藩主の内存により小諸惣士草高割成立前に改易・取り潰しとなっていた。同氏は減石・格式降格の上、名跡再興となっていたため、この時点では持高62石であった。持高100石以上の稲垣は、維新期の少参事・稲垣左織(稲垣貢家)の直接の先祖であり、家老職を勤めた稲垣とは、同族であるが別家系である。またマキは小諸惣士草高割には真木ではなく3家とも槇と記述されている。 持高67石以上100石未満の家臣は、20家(佐々木・木俣分家・藩主牧野の分家3・高橋・高橋・高崎・高栗・天野・伊藤・山本2・山村・小川・小河・糸井・西岡・今枝・宮嶋)があった。持高67石に、この格式で受ける給人地を換算して合計すると100石と見ることができ、持高67石の家臣は実質的に世襲家禄100石の家柄といえる。藩主牧野の分家である牧野3家のほか、半端な数字の67石に多くの家臣が並んでいるのは象徴的である。これら20家で化政期以降から大政奉還までに、もっとも大きな変動があった家臣は宮嶋と山本である。文政12年(1829年)、宮嶋は多額の不明朗な経理疑惑の責任を問われて、暇を命じられた(改易)。分家も懲戒処分を受けたが最下級の士分である徒士(かち)として存続し、幕末近くの文久年間には、地下代官(じかだいかん。小諸代官ではなく出先機関・徴税機関としての代官所の代官)などをつとめて、維新期に士分下禄に列した(宮嶋分家の9代藩主による改革後の持高18石・徒士格)。宮嶋惣領家は廃藩まで40年以上あったが、帰参・名跡再興はなかった。山本(山本弥五左衛門家)は当主の一身上の非行・不行跡(城中での戦慄な行為)があり改易・取り潰しとなったためか名跡再興がなかった。 また小諸惣士草高割成立前後の分限帳から推して、牧野勝兵衛家の分家(牧野蔀家)と、成瀬は持高67石以上の格式があったとみられるが、小諸惣士草高割には掲載がない。当主が幼少で、召し出されていなかったか、あるいは病身で出仕していなかった可能性がある。同じく藩主牧野の分家の一つである牧野外巻家も記載がないが、小諸惣士草高割成立時には、まだ家祖が家臣取り扱いになっていなかった。 英主といわれた9代藩主治世期には、下級家臣を除き、その持高が、家督相続時に小幅ではあるが軒並み減石されている。役職手当が増額整備されているため改革による減石処分とみられる(減石時期が異なる一次史料も現存)。 小諸惣士草高割の成立から20年近く経過した9代藩主治世初期(1832年〜)を基準に、与板立藩以来、家老職を繰り返し勤めた7家の持高をみると牧野(牧野八郎左衛門家)200石、牧野(牧野八郎左衛門家の分家である勝兵衛家)307石、真木200石、加藤227石、木俣130石、太田180石、稲垣50石である。牧野(牧野八郎左衛門家の分家である勝兵衛家)は、307石ではなく230石(但し慶応3年から約1年程度、250石)とする史料も存在するほか、稲垣は、9代藩主治世期に罪があり、さらに35石に減石された。ここでいう稲垣は、維新期の少参事・稲垣左織の直接の先祖ではなく、稲垣此面の直接の先祖である。 9代藩主治世期に、役職手当が増額整備された後は、牧野(牧野八郎左衛門家)、牧野(牧野八郎左衛門家の分家・勝兵衛改め隼人進)、真木、加藤、太田以外で、150石以上の持高を支給された家臣は、大政奉還・廃藩まで一家も現れなかった。これら5家が維新期、家老の格式を連綿する家柄であった。同じく9代藩主治世期の嘉永6年頃には、本間、村井、佐々木、鳥居、倉地、木俣、河合には、家老の家柄5家に準じる120石〜135石の持高があった。また9代藩主治世の後期に笠間が持高120石となった。佐々木を除くこれら7家が維新期、用人の格式を連綿する家柄であった。佐々木は嘉永年間から安政年間にかけて、2度に渡る失態があり、持高80石・奏者格まで格式を下げていたので、維新期には用人格連綿の家柄ではなかった。 小諸惣士草高割の持高と、改革による役職手当増額整備後の持高を比較した場合、当然に減石されている例がほとんどであるが、中には変化がない家臣や、加増された家臣もあった。 9代藩主によって抜擢されたり功労が認められた家臣は、持高を加増されたとみられるが、改革による減石と、功労による加増が相殺されたことで、小諸惣士草高割の持高と、9代藩主治政期の持高に、ほとんど差がないこともある。つまり差がないということは、実質的に加増である。例えば牧野(牧野八郎左衛門家)200石は、持高に変化がなかった。小諸惣士草高割成立前に、当主の死後に養子を立てて家名存続を願い出たり、独断で借金をして藩財政に打撃を与えたことによる懲戒処分で、格式を下げていたが、その後、2代にわたる功労で、僅かずつではあるが2〜3回に渡って、班を進め不完全ながら格式の回復を認められたからである。 小諸惣士草高割成立当時より加増されている主要家臣は、加藤と佐々木の2家が代表例である。加藤は小諸惣士草高割成立前に、末期養子を立てる失態があったうえ、小諸祇園祭りでの不祥事で格式を下げていたが、加藤成徳の家老在職1代の功労で格式の回復がほぼ認められた。また佐々木は小諸惣士草高割成立前に牧野求馬等と共に、非行・不行跡を繰り返して持高減石・格式降格となったが、当主交代後の小諸惣士草高割成立以降に、精勤により班を進め短期間ではあるが家老準席に抜擢されたためである(しかし安政年間に再び失態により失脚)。そのほか用人格未満の家でも数例が加増されており、これらの諸士は実質、大加増といえる。 小諸惣士草高割の持高と、改革による役職手当増額整備後の持高を比較したとき、その減石幅が、同僚・同格の諸士より、大きな重臣は、木俣(227石から130石に減少)と、河合(200石から120石に減少)である。家老の家柄となっていた木俣は繰り返し懲罰を受け、家老の家柄を取りあげられたためである。また家老本職・家老準席に抜擢され、これを勤めあげた河合の先祖は、与板在封期に家禄100石に過ぎなかったが、歴代が順次班を進めたほか、小諸入封後に洪水の被害状況をつぶさにまとめた文書を残した者を出した。家老職に、初めて班を進めた河合氏当主は、家老の格式をも得たが、その惣領は、小諸藩江戸屋敷の門限を破り、塀を乗り越えて邸内に忍び込んだところを捕まったほか、これとは別件で、職務怠慢により藩主の怒りに触れて持高減石・格式降格・閉門・謹慎の懲戒処分を受けたため、笠間が用人格に昇格となるまでは、用人格末席の格式(持高120石)となっていた。懲戒処分を受けた若き河合は、反省した上で精勤し、段々と立身して、用人・加判職に就任した。しかし持高を、失脚前と同じに復すことはできなかった。その後、代替わりした河合は、沈んだままに近かった木俣(重郎右衛門・多門家系、小諸における惣領家)とは異なり、幕末近くに用人・加判等の要職に、再び就任して、連綿する家の格式・持高までも、やや回復した。
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