世界平和記念聖堂建設
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「世界平和記念聖堂」の記事における「世界平和記念聖堂建設」の解説
区画整理による換地で敷地が計画当初より倍以上にも広がって、結局どの案が当選していようとも実施設計は大幅な変更を余儀なくされ、5947m2の敷地に、聖堂、講堂、司教館の3施設をどうデザインしどのように配置するかが課題とされたコンペ自体が、実質的にほとんど意味のないものになっていった。 コンペの時示された予算は、塔を含めた聖堂部分が1500万円、講堂が700万円、あと司教館部分の若干の手当とを合計して2200万円強であったが、第二次世界大戦後のインフレで聖堂建設費だけで一気に6000万円に膨らんだ。聖堂は1950年(昭和25年)8月6日に着工したものの、期を同じくするようにして1950年(昭和25年)6月25日から始った朝鮮戦争による建設資材不足で、鉄筋、鉄骨は4倍から5倍に、セメントも3倍近くにも高騰し、たちまちのうちに施工者側との間で契約更改に追い込まれたのである。 そこで新たな資金手当のために後援会が組織されることになったが、それと並行して1951年(昭和26年)7月荻原広島使徒座代理がドイツ、オーストリア、ブラジルを訪問し、聖堂に必要な備品や装飾の現物供与の形で寄贈を受けることになり、鐘やパイプオルガン、大理石の祭壇などが、都市から都市への友好の証しとして届けられることになった。募金総額は寄贈品を含めて9800万円にのぼり、その内訳は日本国外からの援助が約4000万円、パイプオルガンなどの寄贈品の形で約2000万円、日本国内からは第一次の募金が約1450万円、第二次分が約2350万円、合計約9800万円であった。実際にかかった工事費は約1億1500万円とされているが、不足分がどのように手当されたのかは明確でない。 三角州の上に発展した広島市の地盤が軟弱で、出だしの基礎工事から難航した。構造を担当したのは、早稲田大学教授の内藤多仲。内藤は当時早稲田大学教授であった弟子の南和夫が考案した筒形基礎理論によって、通常20〜30メートルもの深さに達する基礎杭を打たなければならないところを、基礎の下にシリンダーシェルを設けたり、基礎底面を広げて地耐力を増すことで対応した。また上部構造の重量を軽減するために、中空のコンクリートブロックを使うことが採用された。 RC造(鉄筋コンクリート)の建物に、被爆地広島の川砂を使った灰色のレンガを外観部に化粧積みしている。資金不足の面から、部材を外注に頼るのではなく現場で内製せざるを得ず、村野藤吾の職人肌のこだわりもあって、村野が建築材料の一つ一つから直接指示して作らせた手作りの建築と言ってよい。実際、現場では細かな指示ややり直しを含めた厳しい注文があったという。表現派の巨匠村野藤吾が施工段階で設計を変更することは、よく知られた事実である。本来であれば1年半から2年ほどの工事量であったが、建築資材の高騰による工事中断を含めて、完成までに4年の歳月を要することになった。 当初1953年(昭和28年)11月3日に予定されていた献堂式の日取りも順延となり、翌1954年(昭和29年)8月6日の原爆慰霊日に合わせて献堂式が行われた。しかし内陣の壁にはモザイク画もなくまっさらであり、窓にはステンドグラスの代わりに無色透明の板ガラスが嵌められていただけであった。竣工後も世界各地から寄贈品の形で備品や部品が届けられ、最後のステンドグラスが嵌め込まれたのは、献堂式から8年後の1962年(昭和37年)のことであった。 鐘楼の2層部分の東西の壁面には、正面西側は日本語で、東側はラテン語で、「聖堂記」として次ぎのような文言が彫り込まれた碑板(プレキャストコンクリート板)が嵌め込まれている。 此の聖堂は昭和二十年八月六日広島に投下されたる世界最初の原子爆弾の犠牲となりし人々の追憶と慰霊のために、また万国民の友愛と平和のしるしとしてここに建てられたり而して此の聖堂によりて恒に伝へらるべきものは、虚偽に非ずして真実、権力に非ずして正義、憎悪に非ずして慈愛即ち人類に平和を齎す神への道たるべし故に此の聖堂に来り拝するすべての人々は、逝ける犠牲者の永遠の安息と人類相互の恒久の平安とのために祈られんことを昭和二十九年八月六日 — 世界平和記念聖堂 碑 建設に伴う幾多の困難と、#審査結果や#意外な結末にあるような様々な紆余曲折を経て聖堂は完成をみることになったが、結果的に見れば、最初に掲げられた「モダン・日本的・宗教的・記念的」の4つの条件を満たして、世界平和記念聖堂は第二次世界大戦後の表現派の金字塔とも言える村野藤吾渾身の力作となった。そして2006年(平成18年)7月、村野の好敵手丹下健三設計の広島平和記念資料館(1955年)とともに、第二次世界大戦後の建築としては初めて重要文化財(建造物)に指定されたのである。
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