フーゴ・ラッサール神父
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「世界平和記念聖堂」の記事における「フーゴ・ラッサール神父」の解説
詳細は「フーゴ・ラッサール」を参照 世界平和記念聖堂が建設される前にこの地にあったのは、当時幟町天主公教会と呼ばれていた古い木造平屋建ての和風(日本様式)の小さな教会堂だった。1945年(昭和20年)8月6日に広島市に原子爆弾が投下されると、爆心地より約1.2kmの所にあった教会は、1936年(昭和11年)に新築された司祭館を除いてすべて爆風で倒壊し、その後の火災によって司祭館も含めて類焼してしまう。人的被害もまた甚大であり、司祭たちが傷ついただけでなく、信者たちのなかには亡くなったものもいた。 ヒロシマでその多大な犠牲を直接間接に見聞きし、原爆被害の大きさや悲惨さを直に経験したフーゴ・ラッサール神父は、原爆や戦争の犠牲者を弔うだけでなく、その慰霊の祈りが世界中の心ある人々を引き付けて友情と平和を押し進め、真の世界平和のための基点となるような聖堂を建設する必要性を痛感した。その決意のもと、当時のローマ教皇ピオ12世に個人謁見して支持を取り付け、そしてさらには故国ドイツを始め、ヨーロッパ、アメリカ、ブラジル、アルゼンチンなどの各地でヒロシマの実情を報告し、資金協力を訴えて回った。この旅は1年有余の長きにわたるものとなった。 1948年(昭和23年)には朝日新聞社の後援を得て「広島平和記念カトリック聖堂建築競技設計」と銘打ち、3月28日の復活祭を期してその建設計画が新聞紙上に発表されると、総額29万円という当時としては破格の賞金が話題を呼び、聖堂建設は日本国全体の関心事となる。「慰霊のための聖堂」から「世界平和を希求する聖堂」へというラッサール神父の理念は、その後カトリック教会だけでなく次第に宗派や国家を超えて世界中の人々の共感を呼び起こしてゆき、1949年(昭和24年)8月6日に施行された広島平和記念都市建設法の理念とも共鳴するようになると、聖堂建設計画は広島市民全体のものともなって行った。 1946年(昭和21年)から1950年(昭和25年)にかけて、ラッサール神父が世界中から募った義援金はパイプオルガンなどの寄贈品などを含めて6000万円相当にのぼったが、1億円の目標総額に不足する4000万円分を補うために、1950年(昭和25年)1月に「世界平和記念聖堂建設後援会」が発足。翌1951年(昭和26年)には、新たに広島県出身の池田勇人大蔵大臣が代表発起人として後援会の名称を「広島平和記念聖堂建設後援会」と変え、名誉総裁に高松宮宣仁親王を戴き、総裁には吉田茂内閣総理大臣を迎えて国内の募金活動を支えた。「世界平和記念聖堂」という正式名称の代わりに、あえて「広島」の名を冠したのは募金活動を進めやすくするためだったという。 広島が原爆と敗戦で何もかも失い、人々が困窮と物資不足に喘いでいたさなか、ラッサール神父のビジョンの中にあった大聖堂は、必ずしも当初より周囲のすべての人々との間で共有されていたものではなかった。加えて聖堂の建設が始まってからも、朝鮮戦争の影響で建設資材が数倍にも高騰し、工事がたびたび中止に追い込まれるなど幾多の困難があり、それら設計者や施工者の献身的な労働と、カトリック信者をはじめ世界各地の真に恒久平和を願う人々の善意によって、世界平和記念聖堂は今日ある姿のような大聖堂となったのである。そしてその巨大な運動の拠って来る発熱の中心にあったのはラッサール神父その人であり、世界平和記念聖堂はフーゴ・ラッサールを抜きにしては在り得なかったと言える。
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