建築競技設計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:23 UTC 版)
たったひとつの爆弾によってひとつの都市が完全に破壊されただけでなく、そこに住む20万以上もの人々が一瞬のうちに死傷し、しかも放射能による破壊力は長く被災者を苦しめたのみならず、世代を超えた影響さえ心配されていた。科学技術の進歩がもたらしたこの新たな近代兵器の悪に打ち勝つほどの希望を与え、人々が再び立ち上がって建設的に生きて行くためには、建築がそのマイナスの力に拮抗するだけのプラスの力強さを持っていなければならなかった。 それゆえその建築が持つべき性格は、理念から言っても規模の面から言っても、広島の原爆の犠牲者への慰霊だけでなく、戦争によるすべての犠牲者への祈りが心ある人々を引き付け、真の世界平和を築いて行くための運動の起点となるようなものでもなければならず、民族も宗教も国家も超えたすべての戦争犠牲者の上に築かれた、新たな精神文明の礎となるものが求められているとラッサールは考えたのである。 原子爆弾が人間に及ぼす破壊力を直接経験したラッサールのこの直観に基づく壮大なビジョンは、必ずしも初めから人々の積極的な理解を得られるものではなく、いずれそのような大聖堂に発展するにせよ、まずは自分たち教区の信者のために身の丈に合った教会堂建設をと周囲は望んだが、このことに関してはラッサールは頑であった。 1946年(昭和21年)3月、ラッサールはイエズス会の総会に出席するためにローマに旅立つ。同年9月には、時の教皇ピオ12世に個人謁見した機会を捉えて自らの構想を披瀝し、まずローマ法王庁のお墨付きを取り付けた後、自身はヨーロッパ、北米および南米をめぐって世界にヒロシマの惨状を報告しながら、世界平和記念聖堂建設に向けた協力を仰いだのである。この旅は、ラッサールにとって1年有余の長きにわたるものとなった。 1947年(昭和22年)も後半になって帰国すると、聖堂建設を単に広島教区の問題としてではなく、第二次世界大戦の敗戦後に新たに平和国家として再出発した日本全体のものともするために、この建設計画自体を朝日新聞社の後援を得て「平和記念広島カトリック聖堂建築競技設計」とし、1948年(昭和23年)3月28日の復活祭の日を期して朝日新聞紙上に発表した。前年に行なわれた仙台市公会堂コンペとともに、日本建築界にあっては戦後建築史の幕開けを告げる当時最大級のコンペであった。しかもラッサールの掲げた高邁な理念によって、日本近代建築史上初めて世界の目を意識したコンペともなったのである。コンペは次ぎのような条件を明確に掲げる。 本計画に於ては優れた日本的性格を発揮すると共に戦後日本の新しい時代に応ずる提案を望んでいる。此の主旨に基いて下記の要項を掲げる。1. 聖堂の様式は日本的性格を尊重し、最も健全な意味でのモダン・スタイルである事、従って日本及び海外の純粋な古典様式は避くべきである。2. 聖堂の外観及内部は共に必ず宗教的印象を与えなければならない。3. 聖堂は記念建築としての荘厳性を持つものでなければならない。以上のモダーン、日本的、宗教的、記念的と云う要求を調和させる事が此の競技設計の主眼である。 — 平和記念広島カトリック聖堂建築競技設計図集(広島カトリック教会編 / 洪洋社・1949年)より引用 自身が体験することになったテクノロジーの進歩による未曾有の惨禍にも関わらず、ここでまず明確にモダニズム様式であることが謳われているのは、ラッサールが科学技術の進歩を必ずしも否定せず、それは人類にとっての誇りであり、むしろ技術の進歩を人類の使命であるとさえ見ていたからである。しかし世界が平和であるためには、まず人間の心が平和でなければならず、したがって科学技術を使わざるを得ない人間自体は、理論やイデオロギーに支配された人間ではなく、まずもって霊(Geist)によって支配された人間でなければならないと考えていた。 物資不足に見舞われた太平洋戦争の戦時中をくぐり抜けて第二次世界大戦敗戦直後の困窮した時代に行なわれた第二次世界大戦後初とも言える大きなコンペであり、賞金が高額であったことも手伝って177名もの応募があったが、要項に掲げられた高度な条件を完全に満すものがなく、1等当選は該当者なしとされた。それで聖堂の設計自体は結局、審査員の一人でもあった表現派の実力者村野藤吾が自ら行なうことになって、このことは建築界に少なからぬ波紋を呼び起こすことになったが、村野藤吾は設計料の受け取りを辞退しており、のちに村野は1980年(昭和55年)8月3日、自身で設計した西宮トラピスチヌ修道院で曾孫と共にラッサールからカトリックの洗礼を受けている。
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