記念聖堂建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:23 UTC 版)
1948年(昭和23年)に帰化したことで名実共に広島市民となったラッサールは、翌1949年(昭和24年)には自ら幟町教会の主任司祭となって大聖堂建設へ向けて陣頭指揮に当たることになった。しかし、三角州の上に発展して来た広島市の地盤が軟弱で基礎工事が難航したのを皮切りにして、1950年(昭和25年)工事と期を同じくするようにして始まった朝鮮戦争の影響で建設資材が数倍にも高騰するなど、当初から建設は困難を極めた。建設工事が中断するたびに、ラッサールは建設資金の手当に奔走しなければならなかったのである。そこで翌1951年(昭和26年)1月には「世界平和記念聖堂後援会」の名称を「広島平和記念聖堂建設後援会」と変えた上で、新たに名誉総裁に高松宮宣仁親王を戴き、総裁には吉田茂内閣総理大臣を迎えて、広島県出身の池田勇人大蔵大臣が実質的な取りまとめ役である会長発起人となって、国内での募金活動を支えることになった。 「慰霊のための聖堂」からより理念的な「平和を希求する聖堂」へというラッサールの掲げた建築理念は、1949年(昭和24年)8月6日に施行された広島平和記念都市建設法の理念とも共鳴するようになり、1952年(昭和27年)には「広島平和記念聖堂建設に対する感謝決議文」が広島市議会より満場一致で送られている。聖堂建設は単にカトリック教会だけのものではなく、次第に宗派や宗教を超えて広く広島市民のものともなって行ったのである。それによってドイツケルン市よりパイプオルガンが、ボーフム市からは鋼鉄製の鐘が、ドイツボン市からは聖櫃が、ベルギーからは大理石の祭壇などが、広島市に寄贈される形で建設現場に届けられた。また日本国内外よりの献金はもとより、アメリカのニューヨークの実業家トーマス・A・ブラッドレーからの多額の資金援助によって内陣上部のドームが手当てされるなど、世界中からの善意によって聖堂としての形が整って行き、1954年(昭和29年)8月6日の広島の原爆慰霊日に献堂式が行うことが出来た。 しかし献堂式当日には聖堂内陣にモザイク画もなく、窓にはステンドグラスではなくて無色透明のガラスが嵌められていただけであった。それから8年後の1962年(昭和37年)になってようやく、広島教区の司牧がイエズス会から教区司祭に任されるのと時を同じくするようにして、届けられた最後のステンドグラスが聖堂最上部の窓に嵌められて、聖堂は真の完成を見たのである。そして聖堂建設に心血を注いだラッサールもそれを見届けるかのように、広島の地を去ることになった。広島の川の砂を使ってコンクリートをつくり、積み上げられたコンクリートレンガの数は、原爆で失われた犠牲者の数にも匹敵するとも言われる。世界平和記念聖堂は、2007年(平成19年)日本を代表する建築家丹下健三の広島ピースセンターと共に、第二次世界大戦後の建築物として初めて日本国の重要文化財(建造物)に選ばれている。
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