上京から渡米まで
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東京美術学校での太郎は、アカデミックで官僚的な校風に馴染まず、さらにここでも軍事教練に反抗して教練の授業に出なかった。1年生の冬に帰郷中、教練と遠近法の不合格で落第を通知された。東京に戻った太郎は、矢部友衛や岡本唐貴の絵を古雑誌で見て感銘し、1928年の春に彼らが所属していた「造形美術家協会」に参加する。また、同時期に「日本漫画家聯盟」(漫聯)にも参加した。この時期から「岩松淳」の筆名を用いるようになる。 造形美術家協会は同年11月に全日本無産者芸術連盟(ナップ)美術部と第1回プロレタリア美術展を共催、漫聯も日本プロレタリア芸術連盟美術部と緊密な関係となり、太郎もそうした傾向の影響を受けた。一方、1929年3月、東京美術学校からは再び体操(教練)と遠近法の不合格を理由として「退校」を命じられる。当時美術学校には太郎より社会主義運動に傾斜した学生もいたが、彼らが合否判定のある学年(1年と5年)のときは教練に申し訳程度の出席をして卒業したのに対して、太郎はそうした「つじつま合わせ」をしなかった。のみならず、学校に呼ばれて退学通告を受けた際に、相手の教務掛に自分が社会運動に加わった理由を説明し、話を聞かない相手を殴打した。この結果、太郎の処分は「除名」となり復学の道は断たれた。 学校を除名となった太郎は、漫画で生計を立てながら造形美術家協会に引き続き参加、協会が4月にナップ美術部と統合して日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)を結成すると、その研究所(北豊島郡長崎町にあった)で油絵と漫画の講師となる。当時研究所で太郎に学んだ一人に、絵本作家の赤羽末吉がいる。 太郎は1928年の夏頃に山梨県甲府市出身の仁科正子と出会って交際を始めたが(甲府に太郎が来た折に出会い、後を追って東京に来たという)、1929年の四・一六事件の後に別れた。正子は1929年6月に男子を出産、沖縄県出身の医師と結婚して男子を育てる。この男子が伊佐千尋である。その後、「新井光子」を名乗って研究所に出入りしていた八島光(本名・笹子智江)と出会い、二人は1930年4月に兵庫県御影町(現・神戸市)の光の実家で簡素な結婚式を挙げた。太郎は研究所のほかに農民運動やストライキの支援に出向く一方、1932年まで実施されたプロレタリア美術展に光とともに出品したり、『東京パック』に漫画を掲載したりした。さらに実作だけではなくプロレタリア美術や漫画の評論にも手を染め、プロレタリア芸術雑誌に論考を発表、1931年には研究所が創刊した月刊のタブロイド紙「美術新聞」編集長にも就任した。夫妻は日本プロレタリア作家同盟や日本プロレタリア演劇同盟等の参加者と知り合い、特に中條百合子とは親しくなった。 この頃、警察はプロレタリア芸術運動への弾圧を強め、太郎と光は何度も転居を重ねた。1933年2月に小林多喜二が警察の拷問によって死去した際には、太郎はその通夜に参列して小林のデスマスクを鉛筆でスケッチした(「美術新聞」には自身の記事付きで、また雑誌『プロレタリア文学』にはスケッチが掲載された)。「美術新聞」はこの年5月5日付の号をもって廃刊となる。6月に、太郎と光は大崎警察署の特別高等警察に検束された。光は信(マコ岩松)を懐妊した状態での検束だった。二人の検挙は日本プロレタリア文化連盟(コップ)弾圧の最終局面だった。転向手記を書けば釈放するという警察の勧めに、太郎はプロレタリア運動のすばらしさを綴った内容を記して暴力を加えられた。太郎は留置所内で「監房ニュース」を自作して思想犯に配ったりもしたが、絵をもう一度勉強した方がよいと考えて手記を書き直し、1934年2月に釈放された。光は前年10月に釈放され、12月に御影の実家で信を出産していた。太郎も光の実家に身を寄せた。 健康を害していた太郎は御影で光とともに療養に努め、回復すると光の実家近くの借家に家族で住んだ。光の父・笹子謹(ひとし)は太郎と光に支援を惜しまず、二人は約半年間、因島や笠戸島で絵を描く写生旅行をする。そのあと一人で帰郷し、戻ると再び光と和歌山県や東北、北海道に旅行した。造船所の経営者だった謹は、自社で作る船に太郎の絵を描かせたり、自宅のアトリエに開いた画塾の講師に太郎と光を雇ったりし、神戸の画廊で太郎の個展を開いた際も協力した。1935年9月には東京・新宿で個展を開く。また、漫画家として『東京パック』に再び風刺漫画を掲載した。 この頃、光との夫婦仲は生活や芸術の価値観の違いから円満ではなく、喧嘩になれば太郎は時に殴打もした。だが、日中戦争勃発以後、太郎が徴兵されることを二人は危惧した。そんな折に光の父から、信の面倒を見る前提で二人を渡米させる話を持ちかけられる。沢田廉三(光の姉の嫁ぎ先と縁戚関係にあった)の伝手でパスポートを入手し、渡航費を工面するために夫妻の名で「渡米画会」を開き太郎は帰郷もして絵を売った。1939年3月、太郎と光は、横浜港から川崎汽船の貨物船君川丸に便乗して日本を後にする。
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