ブラジル海軍反乱とは? わかりやすく解説

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ブラジル海軍反乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:00 UTC 版)

南アメリカの建艦競争」の記事における「ブラジル海軍反乱」の解説

詳細は「チバタ反乱英語版)」を参照 1910年11月末、後に「チバタ反乱」と呼ばれる大規模な海軍反乱リオデジャネイロ勃発した反乱の背景には海軍士官大半白人であるのに対し一般海員黒人ムラート構成されことがあるリオ・ブランコ男爵によると、「私たち海員兵士徴募に、都会密集地のくず、最も卑俗無価値な奴を準備もさせずに乗船させた。元奴隷奴隷息子たち船員になり、その大半が肌の黒い人ムラートだった」という。 このように強制徴募がある上、軽い規律違反でも体罰使われたことにより、黒人船員白人士官の関係は良くいってもさめているものだった。ミナス・ジェラエスの船員1910年には反乱計画するようになり、経験豊富海員ジョアン・カンディド・フェリスベルト(英語版)を首領選んだ。しかし、反乱参加者の間の意見不一致により数度延期された。11月13日会議では革命派大統領就任日である11月15日反乱を起こすことを主張したが、もう1人首領であるフランシスコ・ディアス・マルチンス(Francisco Dias Martins)は反乱政治制度全体対するものとみられるとして、反乱自体訴えが影薄くなる主張して革命派説得した。そして、反乱直接的な原因1910年11月21日アフリカ系ブラジル人海員マルセリノ・ロドリゲス・メネセス(Marcelino Rodrigues Menezes)が不服従で250回もむち打ちされたことだった。ブラジル政府からの立会人元海軍人のジョゼ・カルロス・デ・カルヴァーリョ(英語版)は海員背中が「塩漬けのために切り開かれボラ」のようであると述べた反乱11月22日午後10時頃、ミナス・ジェラエスの船上始まり、船の指揮官反乱しなかった海員数人殺害された。直後サン・パウロ新し巡洋艦バイーア海防戦艦デオドロ(英語版)、機雷敷設艦レプブリカRepública)、航海練習船ベンジャミン・コンスタント(Benjamin Constant)、水雷艇タモイオ(Tamoio)とチンビラ(Timbira)も反乱したこのうち、ミナス・ジェラエス、サン・パウロバイーアは数か月前に完成して就役たばかりであり、デオドロは12年前に完成した直近改修されたばかりだった。それ以外小型軍艦海員反乱者の2%しか占めておらず、一部反乱勃発した後により大型軍艦移った政府側に留まった軍艦旧式巡洋艦アルミランテ・バロソ(Almirante Barroso)、バイーア姉妹船リオ・グランデ・ド・スル英語版)、新型パラ駆逐艦英語版)8隻だった。しかし、これらの軍艦船員流動的な状態にあった当時リオデジャネイロにいた海軍軍人半分近く反乱している状態では政府側に留まった軍人疑わしく見えたであった。この疑惑も全くのデマではなく政府側に留まった軍艦無線電信技手反乱軍行動計画横流ししていた。疑惑付きまとった結果政府側に留まった軍艦では徴集され海員人数最低限減らされ直接戦闘参加する位置全て士官埋められた。さらに駆逐艦魚雷など補給の問題もある。魚雷雷管なしでは発射できないが、雷管あるべき場所になく、ようやく発見され配備される駆逐艦新型魚雷とはサイズ合わず使えなかった。結局雷管正しく配備されるのは反乱から48時間後のことだった。 フェリスベルトらは海軍における「奴隷制度」、特にヨーロッパ諸国ですでに廃止されていたむち打ち廃止要求した海軍士官大統領恩赦強く反対反乱軍側の軍艦攻撃する計画立てたが、議会では多く代議士恩赦支持したその後3日間、議会上下院ともに上院議員ルイ・バルボサ(英語版)の主導のもと、反乱軍全員恩赦与えることと、体罰廃止議決した反乱最終日にあたる1910年11月26日、ミナス・ジェラエスで記者士官海員面会するジョアン・カンディド・フェリスベルト(英語版)(左の画像)。軍艦支配権海軍返還するフェリスベルト(右の画像)。 反乱の後、ミナス・ジェラエスとサン・パウロ大砲遊底外され武装解除された。その後さらなる反乱恐れて海軍がほぼ操業できない状態に陥ったため、大統領バルボサリオ・ブランコ男爵など多く政治家、ジョルナル・ド・コンメルシオ(英語版)紙の編集長などは新し艦船運用疑問視して、外国への売却支持するようになったイギリスブラジル特命全権公使ウィリアムH・Dハガードリオ・ブランコ男爵転向について、「これは購入決定責任ある男購入自身政策申し子とみていた男にしては驚くべき降参である」と述べた恩赦法案の議決直前、ルイ・バルボサは軍艦購入反対論演説した結論として、私たち陥った苦々しい状況から学べ2つ重大な教訓指摘しましょう1つ目は軍政が国を戦争浮沈から救うのに民政より1ミリたりとも勇ましいことはなく、資源がより多いこともない2つ目は大規模な軍備政策アメリカ大陸での居場所がないことである。少なくとも、わが国わが国周り国々望み、喜ぶべき政策貿易関係発展国際間のつながり強化アメリカ諸国民の平和と友好につながる政策である。これに関してブラジル経験決定的である。これまでの20年間、わが国国防強化するのに費やした力は結局度重なる反乱試みでわが身に跳ね返った国際戦争がわが共和国巻き込んだことはまだなく、一方内戦数度巻き込んでおり、(反乱者は)外的からわが国を守るために準備した武器使用した。これらの危険でばかけた武器捨てて、わが隣人との公平な関係で国際平和を守りましょうすくなくとも、アメリカ大陸においては「平和艦隊」を維持する要はありません。平和艦隊は、ヨーロッパ諸国急所を常に脅かしている憎むべき癌である。 結果的に大統領内閣政治的に不利であると恐れて艦船売却拒否した。これは世論艦船処分して、その代金ブラジルの川を通れるより小型な軍艦購入することで合意したにもかかわらずである。バルボサ反乱集結する前に演説で「冷酷な軍政」と政府批判したことも大統領警戒させた。それでもブラジルアームストロング社に3隻目の弩級戦艦工事止めさせたことで、アルゼンチン政府も3隻目の弩級戦艦建造しなかった。米国ブラジル大使本国への電報ブラジル南米における海軍覇権望み潰えた報告した。 ミナス・ジェラエスはブラジルの手残ったが、反乱明らかにブラジル海軍戦闘準備乱した1912年アームストロング社の代表は軍艦の状態がひどく、砲塔ボイラー錆び始めていたという。同代表はブラジル海軍がこれらの問題対処するには約70ポンドが必要とした。ハガードは「これらの船はブラジルにとって全くの無用である」と簡潔に述べProceedings誌も同様の見解表明した政府はこのときはミナス・ジェライス級戦艦2隻の売却拒否リオデジャネイロ購入支持したが、後にリオデジャネイロオスマン帝国売却した売却決定1913年1月なされた可能性があり、遅くとも9月までになされた)。一部歴史家売却理由チバタ反乱1912年リオ・ブランコ男爵死に帰した

※この「ブラジル海軍反乱」の解説は、「南アメリカの建艦競争」の解説の一部です。
「ブラジル海軍反乱」を含む「南アメリカの建艦競争」の記事については、「南アメリカの建艦競争」の概要を参照ください。

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