ブラジル海軍反乱
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「南アメリカの建艦競争」の記事における「ブラジル海軍反乱」の解説
詳細は「チバタの反乱(英語版)」を参照 1910年11月末、後に「チバタの反乱」と呼ばれる大規模な海軍反乱がリオデジャネイロで勃発した。反乱の背景には海軍士官の大半が白人であるのに対し、一般海員が黒人かムラートで構成されたことがある。リオ・ブランコ男爵によると、「私たちは海員と兵士の徴募に、都会の密集地のくず、最も卑俗で無価値な奴を準備もさせずに乗船させた。元奴隷と奴隷の息子たちが船員になり、その大半が肌の黒い人かムラートだった」という。 このように強制徴募がある上、軽い規律違反でも体罰が使われたことにより、黒人船員と白人士官の関係は良くいってもさめているものだった。ミナス・ジェラエスの船員は1910年には反乱を計画するようになり、経験豊富な海員ジョアン・カンディド・フェリスベルト(英語版)を首領に選んだ。しかし、反乱は参加者の間の意見不一致により数度延期された。11月13日の会議では革命派が大統領の就任日である11月15日に反乱を起こすことを主張したが、もう1人の首領であるフランシスコ・ディアス・マルチンス(Francisco Dias Martins)は反乱が政治制度全体に対するものとみられるとして、反乱自体の訴えが影薄くなると主張して革命派を説得した。そして、反乱の直接的な原因は1910年11月21日にアフリカ系ブラジル人海員マルセリノ・ロドリゲス・メネセス(Marcelino Rodrigues Menezes)が不服従で250回もむち打ちされたことだった。ブラジル政府からの立会人で元海軍軍人のジョゼ・カルロス・デ・カルヴァーリョ(英語版)は海員の背中が「塩漬けのために切り開かれたボラ」のようであると述べた。 反乱は11月22日の午後10時頃、ミナス・ジェラエスの船上で始まり、船の指揮官と反乱しなかった海員数人が殺害された。直後、サン・パウロ、新しい巡洋艦のバイーア、海防戦艦デオドロ(英語版)、機雷敷設艦レプブリカ(República)、航海練習船ベンジャミン・コンスタント(Benjamin Constant)、水雷艇タモイオ(Tamoio)とチンビラ(Timbira)も反乱した。このうち、ミナス・ジェラエス、サン・パウロ、バイーアは数か月前に完成して就役したばかりであり、デオドロは12年前に完成したが直近に改修されたばかりだった。それ以外の小型軍艦の海員は反乱者の2%しか占めておらず、一部は反乱が勃発した後により大型な軍艦に移った。 政府側に留まった軍艦は旧式の巡洋艦アルミランテ・バロソ(Almirante Barroso)、バイーアの姉妹船リオ・グランデ・ド・スル(英語版)、新型のパラ級駆逐艦(英語版)8隻だった。しかし、これらの軍艦の船員も流動的な状態にあった。当時リオデジャネイロにいた海軍軍人の半分近くが反乱している状態では政府側に留まった軍人も疑わしく見えたのであった。この疑惑も全くのデマではなく、政府側に留まった軍艦の無線電信技手は反乱軍に行動計画を横流ししていた。疑惑が付きまとった結果、政府側に留まった軍艦では徴集された海員の人数が最低限に減らされ、直接戦闘に参加する位置は全て士官で埋められた。さらに駆逐艦の魚雷など補給の問題もある。魚雷は雷管なしでは発射できないが、雷管はあるべき場所になく、ようやく発見されて配備されるも駆逐艦の新型魚雷とはサイズが合わず使えなかった。結局雷管が正しく配備されるのは反乱から48時間後のことだった。 フェリスベルトらは海軍における「奴隷制度」、特にヨーロッパ諸国ですでに廃止されていたむち打ちの廃止を要求した。海軍士官と大統領は恩赦に強く反対、反乱軍側の軍艦に攻撃する計画を立てたが、議会では多くの代議士が恩赦を支持した。その後の3日間、議会は上下院ともに上院議員ルイ・バルボサ(英語版)の主導のもと、反乱軍全員に恩赦を与えることと、体罰の廃止を議決した。 反乱の最終日にあたる1910年11月26日、ミナス・ジェラエスで記者、士官、海員と面会するジョアン・カンディド・フェリスベルト(英語版)(左の画像)。軍艦の支配権を海軍に返還するフェリスベルト(右の画像)。 反乱の後、ミナス・ジェラエスとサン・パウロは大砲の遊底が外されて武装解除された。その後、さらなる反乱を恐れて海軍がほぼ操業できない状態に陥ったため、大統領、バルボサ、リオ・ブランコ男爵など多くの政治家、ジョルナル・ド・コンメルシオ(英語版)紙の編集長などは新しい艦船の運用を疑問視して、外国への売却を支持するようになった。イギリス駐ブラジル特命全権公使のウィリアム・H・D・ハガードはリオ・ブランコ男爵の転向について、「これは購入の決定に責任がある男、購入を自身の政策の申し子とみていた男にしては驚くべき降参である」と述べた。恩赦法案の議決直前、ルイ・バルボサは軍艦購入の反対論を演説した: 結論として、私たちが陥った苦々しい状況から学べる2つの重大な教訓を指摘しましょう。1つ目は軍政が国を戦争の浮沈から救うのに民政より1ミリたりとも勇ましいことはなく、資源がより多いこともない。2つ目は大規模な軍備政策はアメリカ大陸での居場所がないことである。少なくとも、わが国とわが国の周りの国々が望み、喜ぶべき政策は貿易関係の発展で国際間のつながりを強化、アメリカ諸国民の平和と友好につながる政策である。これに関して、ブラジルの経験は決定的である。これまでの20年間、わが国の国防を強化するのに費やした力は結局、度重なる反乱の試みでわが身に跳ね返った。国際戦争がわが共和国を巻き込んだことはまだなく、一方内戦は数度巻き込んでおり、(反乱者は)外的からわが国を守るために準備した武器を使用した。これらの危険でばかけた武器を捨てて、わが隣人との公平な関係で国際平和を守りましょう。すくなくとも、アメリカ大陸においては「平和艦隊」を維持する必要はありません。平和艦隊は、ヨーロッパ諸国の急所を常に脅かしている憎むべき癌である。 結果的には大統領と内閣は政治的に不利であると恐れて艦船の売却を拒否した。これは世論が艦船を処分して、その代金でブラジルの川を通れるより小型な軍艦を購入することで合意したにもかかわらずである。バルボサが反乱が集結する前に演説で「冷酷な軍政」と政府を批判したことも大統領を警戒させた。それでもブラジルがアームストロング社に3隻目の弩級戦艦の工事を止めさせたことで、アルゼンチン政府も3隻目の弩級戦艦を建造しなかった。米国駐ブラジル大使は本国への電報でブラジルの南米における海軍覇権の望みが潰えたと報告した。 ミナス・ジェラエスはブラジルの手に残ったが、反乱は明らかにブラジル海軍の戦闘準備を乱した。1912年、アームストロング社の代表は軍艦の状態がひどく、砲塔やボイラーが錆び始めていたという。同代表はブラジル海軍がこれらの問題に対処するには約70万ポンドが必要とした。ハガードは「これらの船はブラジルにとって全くの無用である」と簡潔に述べ、Proceedings誌も同様の見解を表明した。政府はこのときはミナス・ジェライス級戦艦2隻の売却を拒否、リオデジャネイロの購入を支持したが、後にリオデジャネイロをオスマン帝国に売却した(売却の決定は1913年1月になされた可能性があり、遅くとも9月までになされた)。一部の歴史家は売却の理由をチバタの反乱と1912年のリオ・ブランコ男爵の死に帰した。
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