ブラジル渡航・中ノ鳥島探索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 17:01 UTC 版)
「大平三次」の記事における「ブラジル渡航・中ノ鳥島探索」の解説
1907年(明治40年)子の善太郎がリオデジャネイロに開業した日伯商会の経営が行き詰まると、1909年(明治42年)その立て直しのため杉原繁太郎・蜂谷吾輔を伴いブラジルに渡った。ラファエル・モンテイロと共に、先に水野龍が試みたマカエー郡(ポルトガル語版)サント・アントニオ耕地(ポルトガル語版)への日本人入植事業を計画し、リオデジャネイロ州政府と契約したが、連邦政府の協力が得られず、立ち消えとなった。グアナバラ湾の埋立等も企画したが、いずれの事業も成功せず、1911年(明治44年)以後、佐久間重吉とコンラード・ニーマイヤに日伯商会の経営権を譲渡して帰国した。 1908年(明治41年)発見が報告された中ノ鳥島につき、1913年(大正2年)元皇国殖民会社社員松井淳平等が計画した鉱山開発に参加し、11月15日吉岡丸監督として出航し、船では広報を務めたが、島を発見できないまま、1914年(大正3年)3月30日東京に帰港した。 その後の消息は不明で、1934年(昭和9年)以前には死去している。
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