ドジャースに入団 ドジャース在籍第1期の活躍
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「野茂英雄」の記事における「ドジャースに入団 ドジャース在籍第1期の活躍」の解説
1995年2月13日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。契約金200万ドル(約1億7000万円)、年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。背番号16は、親交のあったとんねるずの石橋貴明が、映画『メジャーリーグ2』で日本人選手役として付けていた背番号であることから選んだ。野茂が渡米した当時のMLBは前年(1994年)からの長期ストライキの影響を受けた為に、1995年シーズンの開幕が1ヶ月近く遅れ、レギュラーシーズンの公式試合数が通常162試合制から144試合制に変更されたシーズンであった。5月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で先発投手を務めメジャーリーグデビューを果たし、村上雅則以来32シーズンぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなった。7日に初の犠打を記録。6月2日のニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を挙げ、14日のピッツバーグ・パイレーツ戦で球団新人最多記録の16奪三振を記録し、24日のジャイアンツ戦では日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利を記録。29日のコロラド・ロッキーズ戦まででサンディ・コーファックスを抜いての球団新記録となる4試合での50奪三振を達成。同月は初のピッチャー・オブ・ザ・マンスを獲得し、50.1イニングを投げ、2完封を含む6勝0敗・防御率0.89・WHIP0.82の好成績を残す。7月5日に初の得点を記録する。前半戦を13試合の登板で6勝1敗・防御率1.99・WHIP1.07の好成績で折り返し、オールスターゲームに初選出されて先発投手を務め、2イニングを1安打無失点に抑えた。8月5日に初の打点を記録した。8月10日には自身が先発した試合が没収試合になりメジャーリーグで没収試合を経験した初の日本人ともなった。9月12日に初の犠飛を記録した。後半戦も15試合の登板で7勝5敗・防御率3.03・WHIP1.03の成績を残し、シーズン通算で13勝6敗、グレッグ・マダックスに次ぐリーグ2位の防御率2.54、236奪三振、リーグ最多の3完封を記録して初の最多奪三振のタイトルを獲得し、チームの7年ぶりの地区優勝に貢献。日米で『NOMOマニア』という言葉が生まれる程の人気を誇った。また、ゲーム実況のアナウンサーは野茂が数多くの三振を打者から奪うので、彼が三振を取るたびに日本語で「SANSHIN」と発言していた。シンシナティ・レッズとのディビジョンシリーズでは第3戦に先発したが、6回途中5失点で降板して敗戦投手となり、チームも3連敗で敗退した。新人王の投票ではチッパー・ジョーンズを抑えて受賞をし、サイ・ヤング賞の投票でも4位に入った。 1996年のスプリングトレーニング中に3年430万ドルで契約を延長。4月13日のフロリダ・マーリンズ戦ではコーファックスに次ぐ球団史上2位となる17奪三振を記録し、完投勝利を挙げた。30日に初の四球で出塁を記録した。6月9日に初の二塁打を打った。7月5日のロッキーズ戦では8回5安打1失点の投球でNPB/MLB通算100勝を達成。9月1日のフィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャー史上3人目となる1年目から2年連続200奪三振を達成。17日のロッキーズ戦では雨で試合開始が2時間遅れたが、途中3回からトルネードを封印しセットポジションに終始した投球で初のノーヒットノーランを達成した。高地で空気が薄いためスタミナの消耗が早く、球場が広くない上にボールも飛びやすい「打者天国」として知られるクアーズ・フィールド(野茂自身も、同球場では過去僅か2回の登板経験ながら防御率11.17と相性が悪かった)でのノーヒットノーラン達成者は、2021年シーズン終了時点でも野茂のみであり「完全試合に匹敵する」と報道したメディアもあった。また、現在クアーズ・フィールドではボールを湿らせることで打球を飛びづらくしているが、これは野茂の記録達成時に雨でボールが湿っていたことにヒントを得たとされている。この月には自身二度目となるピッチャー・オブ・ザ・マンスも獲得した。後半戦は15試合の登板で7勝4敗・防御率2.84・WHIP1.10と好調を維持し、最終的にチーム最多の16勝をマークした。チームはサンディエゴ・パドレスと地区優勝を争い、1ゲーム差で敗れたがワイルドカードを獲得。アトランタ・ブレーブスとのディビジョンシリーズでは第3戦に先発したが、4回途中5失点と力を発揮できずに敗戦投手となり、チームも前年に続き3連敗で敗退した。 1997年4月25日のマーリンズ戦では、ドワイト・グッデンの記録を更新して当時のメジャー最速記録となる444回2/3での500奪三振を達成。8月28日のオークランド・アスレチックス戦でもグッデンに続きメジャー史上2人目となる新人年から3年連続の200奪三振を達成した。前半戦は18試合の登板で8勝7敗・防御率3.81・WHIP1.27の成績で折り返すが、7月26日のフィリーズ戦で打球を右肘に受けて退場、打撲と診断される。故障者リスト入りすることなく復帰したが、後半戦は15試合の登板で6勝5敗・防御率4.81・WHIP1.50と不調に陥る。9月14日のアストロドームでのヒューストン・アストロズ戦以降はトルネード投法を封印し、前年のノーヒットノーラン達成試合以来となる終始セットポジションからの投球に切り替えたが相手3番ジェフ・バグウェルに初回裏先制2ラン浴び7回を奪三振11も勝敗付かず降板。最終的にリーグ4位の奪三振数を記録するも、チームはポストシーズン進出を逃す。オフには6月から張りがあったという右肘の遊離軟骨除去手術を受けた。 1998年は例年よりも1ヶ月早くロサンゼルス入りし、トレーニングを開始。スプリングトレーニングでは球速が91mph(約146km/h)まで回復するなど球威はあったが制球が悪く、計21回を投げ自責点19と開幕に不安を残した。4月3日のレッズ戦ではメジャー自己最多となる7連続奪三振を記録したが、18日のシカゴ・カブス戦では2/3回を8失点で降板。メジャー通算100先発となった28日のミルウォーキー・ブルワーズ戦の7回には日本人メジャーリーガー初本塁打を記録し通算45勝目をマークするも、5月9日のマーリンズ戦では右手中指のフェイクネイルの圧迫による痛みを訴え、途中降板。5月まで12試合の登板で2勝7敗・防御率5.05・WHIP1.40と不調だった。
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